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心の流れ

頭に浮かんだいろんなこと

怠惰な考えのままでいるから批判的に出る

アダルトチルドレン

アダルトチルドレン(AC)が社会に上手く溶け込めない理由の一つに、批判的ということがあります。
自分が譲れないと感じることを意思表示するときに、批判的になってしまうのです。

人間誰しも自分の意見を批判されたくはありませんから、たとえ自分が直接批判されなくても、別の人を批判している様子を見て、「この人とは深く関わらない方がいいな」と思ってしまうのです。
批判的な人は気づけばいつも独りぽっち。ちょっと寂しいですね。

では、なぜ批判をしてしまうのか?
それは思考が怠惰だからです。何も考えていない生き方をしているからです。

全てが与えられる、決めてもらえるを前提に生きている人は、好きなもの(対象)は好きといいますが、それ以外に関心を示さない。
実際は好きなものとそうでもないことの境界があいまいなので、本人の意思に反して誤解を受けやすく、そこに怒りを爆発させて、批判に転じるということがあります。

でも、相手からしたら、突然批判されるのですから、たまったもんじゃないとなります。
そして貴方の印象は悪くなり避けられる。

この事態を回避する為には、何をすべきでしょうか?
それは積極的に関心を持つ・もてないの境界を考えることです。
一度まず自分で考えて境界を引いたならば、相手にはっきりと示す。
これは思考が怠惰なときはやらなかった行動です。
境界を引くという積極行為によって、自分は事象に責任を持つポジションに移行していますから、誤解されても淡々と訂正することができる。

”勝手に勘違いしやがって、コノヤロー”とは思わない。
”あっ、表現が足りなかったな、もっと説明すればよかった”と反省するのです。

この、自分で責任を取るか、相手に責任をなすりつけるか、の始まりは、思考の怠惰さによるのです。
考えなくても言わなくても、分かってくれるよね、わかってるよね、という傲慢さが批判という結果を生むのです。
自分で考えるって、強いんです。
考えるからこそ、自分の意見が、鉄を叩いて鍛えるように、ひきしまっていく。
どんなに議論を投げ出したくても、そこに留まる心構えができる。

こういう態度を示すことが出来れば、他者は気分を害することなく堂々と向き合ってくるでしょう。
脱独りぽっちです。

何事にも関心を持て!なんてことはいいません。
何事も積極的に境界を引け。それだけ。
引いた後、外の世界と確定したものは、その世界の主の自主性に任せる。
そういう積極的割り切りが大事です。

アダルトチルドレンにとっての本

アダルトチルドレン

昨今、アダルトチルドレン(AC)に関する書籍が多く出回るようになりました。
本を手に取るとき、貴方は何を期待しますか?

最初は、自分の苦しい思いを代弁してくれていることに、仲間が出来たようで、うれしさや共感を覚えるでしょう。
何冊も、何冊も、本を読み進めていく内に、自分の置かれた悲惨な環境を客観的に見るようになるでしょう。
さらに読み進めると、解決策を探したくなるでしょう。

でも、ここでちょっとした壁にぶつかるんです。
解決策って、明解に書いてあることはほぼない。
提案されている解決策をやる気にならなかったり、怖くて出来なかったり。はたまた効果に疑問があったり。

最終的に、読みっぱなしにしている人が多いのではないでしょうか?

でもね、もう一つ本にはAC関連の書籍には読み方があるんだなと、気づいたんです。

それは、自分の思い込みを捨てていく読み方。
たぶんACって、完璧な自分、恥ずかしくない自分というのを、デフォルトとしていると思うんです。

嫉妬はいけないよ、とか、ウソはついちゃいけないよ、とか。
でも実際にライバルに抜かれれば嫉妬するし、都合が悪くなれば軽いウソはつく。
後で、”そういう風に思っちゃイカン”と自分を叱責するんだけど、そんな自分を完全に無くすことはできない事実を前に、苦しみます。
だから、「自分の事好きになれっ」と言われると、拒否反応が出るんです。

そこで本の登場。
本の中の登場人物は、完璧な振る舞いをしていますか?いつも優等生ですか?
破綻してますよね?破壊的行動に出ていますよね?
そう、それが大事なんです。
生育過程の中で、いっぱい歪みを溜め込んでいる人は、どこかで歪みを発散させなきゃいけない。
それが、攻撃的であったり、否定的であったり、という行動に表れてる。
自然の理なんです。

ACが自己像としてあるべきと考えるデフォルトは、それと真反対。不自然です。
実現自体、無理なんです。
ですから、そのデフォルト脱ぎましょう。

嫉妬があってもいい、嘘をついてもいい。そういう自分の腹黒さや弱さも、自分なんです。

本を読んだ貴方は、書籍の中の人々の行動を責める気持ちにはなれないと思います。
それは、貴方にも当てはまるんですよ。

「そういう育ち方をしたら、そうなるのも無理ないね。」
「そういうのは、よくあることさ」
と感じるため、すなわち自分を許すために本は存在します。

アダルトチルドレンの希望

アダルトチルドレン

題名「アダルトチルドレン(AC)の希望」に「?」と思われた方もいるのではないだろうか?
けして恵まれてはいない過去を引きずるAC。そんなもんに希望なんてあんのか?と。

そこで、ベストセラー「幸せになる勇気」より以下の文を引用する。

[哲人]
もしも人間が馬のよう足が速ければ、馬車を発明することはなかったし、自動車の発明もなかったでしょう。鳥のように空を飛ぶことができれば、飛行機は発明されなかったでしょう。白熊のような毛皮を持っていれば防寒着を発明することもなく、イルカのように泳ぐことが出来なければ船も羅針盤も必要なかったに違いありません。
文明とは、人間の生物学的弱さを補償するための産物であり、人類史とは劣等性を克服する歩みなのです。
[青年]
人間は弱かったからこそ、これだけの文明を築き上げた?


弱いからこそ、補償する何かを発明した人類。
それは心の弱さを持つACにも同じ事が言えるのではないだろうか?

恵まれた環境で生まれ、愛情をいっぱい注がれた人々と違う、足りないものだらけの人生に、皆、どうにかしようとあがいている。
少なくとも、このブログに訪れている皆さんは、そうしようとしている。

良くしよう。その気持ちが文明を、躍進させる。
恵まれた人と全く同じではないけれど、目が悪い人がメガネをかけてクリアな視界を手に入れるように、何か文明の力で心豊かな世界を切り開くことが出来る。
その可能性を秘めたAC。

ACだから幸せになれない、未来に希望を持てない、と絶望するのは早い。
ACだからこそ、出来ることがある。それを一人一人が探して、文明という形に作り上げたいと、私は願っている。

小さなエゴと相対する方法

対話

よく、親友が幸せなときに自分が不幸せの渦中にあって、お祝いできないことに自己嫌悪する自分をなんとかしたいという相談がある。
親友の幸せを一緒に喜べない自分は、薄情だろうか?
もし、無理に笑顔を作って喜んだふりをすれば、それこそ偽善の皮を被った薄情では?

人は自分が満たされていないと感じる時、比較対象となりうる存在が満たされていると、小さなエゴ(嫉妬やねたみ)に取り付かれる。
その小さなエゴをまるで無かったかのようにすることはできない。
エゴは生まれるべくして生まれたのだ。

では、そのエゴをどうするか?
邪魔者扱いするか?厄介払いするか?
無理である。

我々が出来ることは、といえば、エゴに向き合うこと、ただそれだけ。
「あっ、今私嫉妬してる。」「『自分は不幸なのに』って思ってる」、それだけでよい。
自分のエゴを自分で受け取る。
そうすれば、さっきよりキィーという気持ちは落ち着く。

その後、自分に相手のことを喜ぶ余力があるかを尋ねる。
「○○ちゃんのこと、喜べる?」、「はい」と返ってきたら、自分の幸せを想像する。
幸せはたいしたことなくていい。
今日飲んだカフェのドリンクが美味しかった。
お布団がふかふかだった。
そうやって、ちょっとずつ自分を満たした上で、時間が空いてもいいから、相手のことを喜んでいるよと伝えるといい。

では、「いいえ」と返ってきたら?
何が「いいえ」と返す気持ちの源なのかを考える。
自分は彼氏と別れたばかりで、結婚が決まった相手と比較するのが辛い など。
それでいい、今は辛いのだから、そう感じる自分を認めよう。
相手には、正直にその気持ちを伝えよう。
感情的になることなく、自分は○○で今辛いから貴方の喜びに寄り添えない、と。

もし相手が貴方を大切に思っているのならば、誠意を持って話をしてきた貴方の誠実さに、一定の理解を示すだろう。
仮に、私の喜びに賛同できないなんて、人でなし!と怒る相手ならそれまで。
人間誰しも同じタイミングで幸せの波が来るわけではないのだから。
そういうズレも含めてつきあえる人が、生涯つきあえる友である。

無理に器を大きく持とうなんてしなくていい。
嫉妬もねたみも、生まれるときは生まれる。
それを無かったことにしようと抹殺することが、なによりも不誠実である。

機能から美しさへ、成熟の道のり

仕事

どのような商品が優れているか?
これは全ての物作りの現場で考えるテーマである。

エンドユーザー向け商品に対して、アップルが誕生するまで、日本は「機能」を優先していた。
人々は不便を解消しようと、お金を出して、便利を買った。

電気機器は、必要な仕様があって、それを詰め込めるボディーがデザインされていた。
ところが、アップルは出来上がりの見た目が先で、それに機器を詰め込めるよう技術革新しろと物作りの現場に迫った。
最初は無理だろ?と諦めていた現場も、スティーブの熱意に動かされて考えぬいた結果、iPodが生まれた。

美しさが便利さより優先されたのである。
これは時代の成熟を意味しているように感じる。

モノがない時代は、モノがあることが豊かさの物差しであった。
今、モノがあふれ、大量に廃棄されている。
捨てるほどたくさんあるモノの前に、貴方は豊かな生活を送れているか?と問うと、否という答えが多い。

豊かさのベクトルは、既にモノで計れなくなっている。

では、何が心の豊かさなのか?
それは、自分の心が満たされていると感じる様々な事である。
その事の一つが、「美しい」と感じること。
人が美しいと感じるとき、そこには、「まっすぐに、澄んだ、研ぎ澄まされた、哲学のようなもの」が、ギュっと詰まっている。

自分があるべきだと思う、もしくはあるべきだと気づかされた、その姿。
姿を見つめることによって、見えてくるのは、自分の有り様。
便利をただただ求めるのではなく、心から見つめていたいと思う、その存在に、人は突き動かされる。

時代が成熟されていくとは、その時代に生きる人々が、目先の利益よりも広い眼で見た利益をきちんと見据えることの出来る時代である。
山の稜線に掛かる夕日、満天の星空、絶えることなく流るる水、荒々しく削られた大地、ひっそりとたたずむ苔。
これらは皆美しい。
その美しさの本質とは何かを知ったとき、この世に「美しい」と感じる概念が存在する意義が見つかる。

人工物であっても、美しさは作り出せる。
作ることで人は豊かになり、豊かさが、人を思う心の余裕を作る。

より苛烈な環境を極める地球という乗り物を、地球人全員で護っていくために、我々は成熟の一歩を踏み出した。
その機運がそのまま続いてくれることを、心より願う。

論理性が生まれない背景とは?

対話

人の話を聞くとき、話が論理的であればあるほど、理解しやすい。
でもいざ、自分が話そうとすると、論理的に話せない。
それどころか、論理的に話せる人そのものが少ない。
故に、論理的な人は尊敬される。

皆さんは、論理的な話が理解しやすいという体験を以て、論理的であろうとする。
では、論理的であることはいいことなのか?

私が考えるに、そもそも脳は出来事を「論理的」に掴むように出来ている。
絵を描くときに、ほんの些細なものから書き始めるのではなく、全体の構成を決め、軽くラフ画を描き、最後に細かいパーツを描き込むように、話もおおよその手順というものがある。
その手順通りに話が進むと、脳に特定の絵が出来上がり、多くの人が共有しやすい。

ならば、なぜ、論理的に話すことが出来ないのか?
出来事を「論理的」に掴む(INPUT)のならば、「論理的」に話(OUTPUT)できそうなものなのに。

そのINPUTとOUTPUTに隔たりを生む理由が、「心理的障壁」である。

人は、なんらかのフィルターを介して物事を理解する。
フィルターは、例えば「自分は悪者だと思われたくない」であったり、「どうせうまくいかない」であったり。いわゆる保身のような気持ちがちょっかいを出してくる。
そのちょっかいを前に「オレはそうは思わないけど」という前置きや「できるかどうかわかんないけど」といった枕詞が入る。

それだけならまだしも、保身を重ねすぎて、何の話か分からなくなることすらある。

このようなことは、なにも話すに留まらない。
態度・行動にも出る。
例えば、ゴミ屋敷・○○依存・△△カースト・家計崩壊・不倫etc。

これらは百害あって一利無しということは、頭では分かっているけれど、保身という欲求を前に、振り払えずにいる。
このような行動にまみれている内は、それに気を取られて、できない自分や弱い自分に向き合わなくていい。

でも、そんなものにどっぷり浸かる人生に、真の幸せは訪れるだろうか?
少なくとも、当人が活き活きと胸を張って生きられるとは思えない。
かといって、他者が「やめろよ!」と言って止められるほど簡単でもない。

では、どう手を打つか?

それは、出発点に光を当てることである。
行動はそのままでいいから、なぜ保身的行動をしているのだろう?それによって得られる利益はなんだろう?と考えてみることだ。
一般的に利益に見えないものであっても、その人にとっては利益ということはある。
ゴミ屋敷なら、「足りないものはない」と焦らなくていい利益だとか、「捨てる罪悪感を抱かなくていい」という利益だ。

利益が確定すれば、「本当にそれは利益として働いているのか?」を考える。
そしてもっと大きな利益がないかも考えてみる。
考えてみて、心から利益だと思えるなら、そのままでいい。
でも、そう思えないなら・・・、本当の利益を探さねばならない。
手元にある利益は、本当の利益の代わりなのだから。

大概本当の利益は、他者から見ても利益に見える。
つまり、合理的で論理的で、無駄がない。
皆に認めてもらう必要はないのだが、意外と人の眼というのは、論理的かどうかを見抜くのに優れている。
その眼の力を信じてみないか?

たぶん論理的であること、イコール、素である(無装飾) のだと思う。
人の脳が論理的に理解するようになっていることからも、論理的に思考することが人間の一番自然な姿なのだ。
だからこそ、ひねくれて論理的ではない世界に陥っている人々とも論理的に話をしていこう。

まずは自分が論理的に話せるようになるまで、ひたすら自分の中に陥入してくる保身に眼を向ける。
保身に走らざるを得ない自分の話を聞いてやることが、論理性を手に入れる第一歩。

買い物は自立への一歩である

アダルトチルドレン

貴方はお買い物に行くとき、どのように買う物を決めているだろうか?

例えばドラックストアに行くとする。
入り口に特売品が並んでいる。
あっ!いつもの値段より30円も安い!と買い物かごにその商品を放り込んでいないだろうか?
私は店の思惑に見事ひっかかり、目的のものを買い始めるより前に、かなりのものをかごに入れていた。

そして、肝心なものを買い忘れたときもあった。

何気ない日常の風景、買い物。
その買い物に、「私が私であることの弱さ」がきっかり表れている。
もし、私は私だ!と強く思っているなら、外から来る特売の信号には目もくれず、まずは自分がやり遂げようと決めた品物を買いに行くだろう。
買い物をし終えた後の余力で、さっき○○があったから買おうかどうか、検討に入るだろう。
しかし、実際はどうだ?!
見事にドラックストアの思惑に振り回されている。

これが私の心の模様なんだ。
簡単に他者に侵入される。
侵入を許している。
それでいいのか?自分。

心の強い弱いは、ケンカをするときにだけ現れるんじゃない。
日々の暮らしの中で、自分の意思をなるべく自分が守ってやるという意識を持てるかどうかに現れる。
小さな事からこつこつ重ねていくことで、自分の自分らしさを再確認できる。

たかが買い物、されど買い物。
小さな日常の暮らしの中から、自分を強くする方法、試してみませんか?

「いや、それは・・・」と話し出す心理

対話

相手から話を振られて、肯定的な返答をするときも否定的な返答をするときも、「いや、それは・・・」と話し出す人がいる。
否定的な返答のときはいざしらず、肯定的な返答の時まで、一度は「いや」と否定せざるを得ない気持ちって一体なんなのだろう?

こういう返答をする人は、成長過程で自分の意見を「そうだね」と受け取られた経験に乏しい。
受け取られるというしごく当たり前の、この、経験が抜けることにより、自分が自分でよいという安定感を形成することができない。

仮に話の内容が自分にとって充分にYESであったとしても、自分は自分でよいという安定感に欠けるため、他者の意見を鵜呑みにした自分は、なにかに負けたかように感じる。
”いやいや、そんな負けなんぞ到底許容出来ない”という強い反発心が、自分の領域を際立たせる「いや」として現れている。

つまり、自分と他者の間に明確な線引きのできない人が、言葉の上で無理矢理線引きをしている様子が、「いや、それは・・・」なのだ。

他者と同じ意見を持つことは自分が負けることではないし、正直にYESと言った方が、文脈的にも伝わりやすい。
最初に「いや」と切り出すと、続く文脈は反対のことを言うのだろうと聞き手に期待させてしまうのに、結局同調意見を述べるのだから、いい印象を持たれないだろう。

もし、「いや、それは」が口癖のようになっている人がいたら、心の中を見直して欲しい。
相手の意見に即同意した自分が、悔しいという思いに囚われるかどうか。
悔しいと思うなら、それは素直じゃないということ。
それだけ、自分が弱いということ、だ。

無理に口くせを直そうとするのではなく、なぜそのように口走ってしまうのか?を考えることで、もっと素直でかわいい人になれる。
自分をしっかりと持った素直でかわいい人に、人は信頼を寄せてくるのだから。

人はなぜ怒るのか?

カウンセラー

広尾の泉谷クリニックに通っていた頃、泉谷先生に「腹が立つことはありますか?」と尋ねると、「学生時代、『泉谷は全然怒らないなぁ』と言われていた」と話されました。

その時は「へぇ~、やっぱり人間の格が違うのだな」と驚くに留まりましたが、今になってようやく怒りが湧かない理由を分かった気がします。

その理由とは
自分と相手を完全に切り分けているから
です。

怒りの大半は、自尊心を傷つけられたことが原因です。
理不尽な要求をされる、バカにされる、差別される、といった相手から粗暴に扱われていると感じるとき、「自分は価値ある存在だ!」と思う自尊心が痛めつけられたようで、怒りが湧いてきます。

怒りの奥には、自分は大切に扱われるべき存在なのにそうしないなど、なんたる無礼か!という思いがあるのです。

でも、考えてみて下さい。
相手が自分をどう見ようが自由です。
アホンダラと見るか、尊敬すべき相手だと見るか、そんなの、私たちにはコントロールできません。

それよりも、相手が言うことを鵜呑みにしてしまって、まるでそれが事実かのように受け取っている自分の方が問題です。
言い分には耳を貸すとして、それをそのまま受け取っている自分は、相手に正しく向き合っていると言えるでしょうか?

不愉快なことを言ってくる人間には二通りあって、一つはこちらの行いが悪く苦言を呈している場合、一つはあちらの考えに偏りがありすぎて暴言を吐いている場合、があります。もし後者だった場合は、完全なる言いがかりですから、受け取る必要は無いのです。

心の中で、「Aさんは○○と言っているけど、私は違う考え持っている」と捉えれば、どんな内容であろうとも、Aさんが○○と思い込んでいるに留まり、怒りどころか鼻で笑う余裕さえ生まれるのです。
そう、心の中でAさんの思っていることと、自分の考えが切り分けられるのです。

これが出来れば、怒りに振り回される頻度は激減するでしょう。
では、出来るようになるためには?

今までの考えを捨てましょう。

相手の考えの侵入を防ぐために、外の世界によって評価されることを当然とする自分を捨てるのです。
たぶん怒る人は、自分のアイデンティティーを他者にゆだねています。
「友達がいるから、自分はまともな人間だ。」「大学を出たから一般的知識はある」「社内で表彰されたから、成績優秀だ」「Bさんに、『頭良い!』と言われた」。
こういう評価を自分のアイデンティティーの基礎としている。

これはマズいです。
なぜって?他者の気持ち一つで、評価は反転するから。
他者次第でふらつくアイデンティティ-では、相手の侵入を容易に許しているのと同じ。
いつでも、どこでも入ってこられます。
そんな、相手に容易に入ってこられる自分に、言いがかりをつけられたときだけ都合良く「気持ちの盾」が作れますか?
無理でしょう。

ですから、何の根拠もなくとも、自分は自分だ!と信じることです。
おっちょこちょいのところも、どんくさいところも、自分だ!と思うこと。
自分が自分をいいやつ!と思えば、他者がどう思おうとも、へっちゃらです。

怒りの使い道は、本来次へ進む原動力なのです。
ですが暴言は、ただの貶め、言ってみれば相手の愚痴の掃きだめになるだけですから、何の原動力にもなりません。

そんなもんは、聞いた瞬間から、さっさと捨てて、怒るなんてもったいないエネルギーを使わなくてもいいように、賢く生きましょう。
怒るのは、相手の考えが自分に侵入するのを許しているから。
意識の上で、自分と相手をきっちり切り分けておけば、気持ちは安定します。

礼儀正しい真の目的は?

対話

貴方は礼儀正しい人だろうか?
私は礼儀正しく見える人らしい。
高校生の時、同級生にはモテなかったが、オジサンからのウケは良かった。

それはなぜか?

オジサンたちが思い描く振る舞いをし、にこにことして取り扱いやすい対象だったからだ。

親から人付き合いの方法を学べなかった私は、人の意に沿う方法をコミュニケーションの基礎とした。
それゆえ、意見らしい意見を持つこともなく、形骸的な礼儀作法をブラッシュアップした中身のない子であった。

ただ中身がないだけなら、それほど害ではないが、実際のところ、心には黒い渦が巻いていた。
その渦とは「相手に失礼の無いように振る舞うことで、つけいる隙を与えない」というものだった。
鎧としての、礼儀、だったのだ。
当然ながらそこに、敬意を払うとか、心地よく過ごしてもらう、といった考えはない。

どんな素晴らしい慣習も、使い方を誤れば、意味を成さない。

心の鎧を被る少女と、従順さを愛でるオジサン。
これじゃ、まるで金持ちと愛人みたい。
そこにあるのは、対話とはほど遠い、利用の世界だ。
そんな貧しいコミュニケーションしか取れなかったから、同級生にモテなかったのかな。