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心の流れ

頭に浮かんだいろんなこと

私の最大の誤りは「私はまともな人間だ」と思っていること

アダルトチルドレン

ドラマ「リーガル・ハイ」をご存じだろうか?
実はこのドラマを何度も見直している。
随所随所に心を打ち抜く言葉がちりばめられており、なにかこう自分に問いただしたくなるからだ。

ドラマは「人間は崇高な存在」VS「人間は醜さの塊」という構図で描かれる。
主人公は、後者の考えの持ち主だ。
そのドラマの最終回。

主人公が相手(崇高を信じる人)に「いいか、君の本性を教えてやるからよぅく聞け!君は独善的で、人を見下し、いい男ぶった薄ら笑い気持ち悪くて、スーツのセンスがおかしくて、デタラメなことわざを作る、甘くてぬるくてちょろい、裏工作をしたらたまたま上手くいっただけの、ゆとりの国のポンコヘタレ天パー短足クソ王だ!」とまくしたてる。
相手は「そんな酷いことを言わなくていいじゃないか、ボクだって一生懸命やったのに・・・」といって顔をゆがめる。
それをみて、「いい顔になったじゃないか。ようこそ人間の世界へ。君がもし、みんなが幸せになる世界を本気で築きたいと思うなら、方法は一つだ。醜さを愛せ」と言う。

この最後に「醜さを愛せ」。
はて?私は醜さに向き合っているだろうか?

考えてみれば私は、「自分ほど人を騙せず、嘘をつけない人はいない」とおごっている。
もちろんそれは騙さなくても生きていける恵まれた環境に産み落とされたからであり、
嘘をつけるほどの勇気が無かったからでもある。
けれど、もし世界中の人間が私と同じ倫理を持てば、世界の平和は訪れるとホンキで思っていたのだ。

では実際の処はどうなんだ?
常に私の「正しい」は、誰かの「正しい」と一致するだろうか?
答えは、否。
私が騙すことを避け正直に話すことを「正しい」としても、それが誰かを傷つけることになるならば「間違っている」と考える人もいる。
唯一の正解なんてもの、そもそも存在しない。

間違えないように、無難に、迷惑掛けないようにと、幾重にも保険を掛けてつくった論には血が通わない。
血が通わないどころか、誰の記憶にも留まらないだろう。
無意味な見栄はさっさと捨てることだ。

このドラマを以て、自らを崇高な存在と思うか、醜い存在と思うかにより、アプローチ方法が180度変わることを知った。そして醜さからでもゴールにはたどり着くことも。
間違っても、無難じゃ無くても、場合によって迷惑を掛けてもいいって、すいぶん楽じゃないか?

私のように正しさの鎧を被っている皆さん、もっと楽なところへ降りてきませんか?

友達欲しけりゃ、自分の欠点に向き合え

対話

年を重ねても友達は必要か?の問いに、あなたはどう答えるだろう?
人にあわせるのは苦手だから、NO?
寂しい老後はいやだから、YES?

自分より10才以上年上の人であっても、友達に関する悩みが尽きないというのは、意外だった。

私は生まれた頃から、どちらかというと友達作りがヘタだ。
思春期~青年期にかけて、どうやったら友達が出来るのか、友達と思ってもらえるのか?ずいぶん悩んだ。

その頃は、礼を重んじる、相手の話を聞く、プレゼントを贈る、誘うなどが友達として必要な要素だと思っていた。
ところが意外なことに、約束を平気で破り、自分の事をたくさんしゃべり、プレゼントはもらうだけで渡さず、誘われるまで声を掛けない人の方が、私よりも友だちづきあいが上手かった。

友達作りに関して、どうも私の目は濁っていたらしい。私が大切にしていたポイントは不要だったようだ。
代わりに、大切な視点が抜け落ちていた。

その視点とは
「他者の欠点も自分の欠点も受け入れる」。
人は意識しなくても、なんとなくこの人は私を受け入れてくれそうかくれなさそうか、判断している。
受け入れてくれなさそうな人の前では、人はちょっと緊張する。
素を隠そうとする。
自分が自分らしくいられない人と付き合いたいか?
あえて答えるまでもないだろう。

なにはなくとも、根底で繋がれる感じのする相手。そういう人が友達にピッタリだ。
ついでにちょっと抜けていると、なお一層(欠点のある)自分を受け入れてそうな気がして、肩の力が自然と抜ける。

ということは、親に「いい子でいなさい」「迷惑掛けるんじゃありません」と躾けられた「完璧」な子が友達できない->ということになる。
友達に恵まれて欲しいと願う親が、子を友達ができないように躾けてる。
なんとも、皮肉なもんだ。

なので、ある程度大人になってから友達が欲しかったら、まずは自分の欠点を認めよう。
相手の欠点を許せないのは、「自分の欠点を許すこと」を許していないのに、「相手だけ欠点を許される」ということに憤りを感じるからだ。
憤りを無かったことのように、感情にフタをすれば、途端にストレスフルになる。
ストレスを抱えて友達作りなんて、本末転倒だし、そもそも長続きしない。

自分の欠点と向き合って、欠点のない自分を目指すんじゃなく、欠点が有りながらその欠点と同居し、かつ出来る範囲で直していこうとすることができて初めて、他者と向き合える。
つまりは、友達欲しけりゃ、まず一人に立ち戻って、欠点という苦手を克服して、いいことも悪いことも自立して対処できるようになることだ。

友達からアイデンティティを与えられて、「それが自分」と思うような幻想を追いかけている内は、友達に操られる操り人形のような生き方しか出来ない。
操り人形のような生き方は、ひとたび友達がその遊びに飽きてしまえば、いとも簡単に捨てられる。

友達という幻想に依存するのは止めよう。
一人になろう。一人になって、自分を知る。
まずは、そこから。

親の行動に思う知的さ

つぶやき

もうすぐ父の日だ。
自分の父親とはどういう存在なのだろう?と思うとき、苦い思い出しか浮かばない。

県内トップの高校、名門の大学を出ても、日常はゴルフ、スポーツ中継視聴、殺人事件などの小説読書、買い物で埋め尽くされている父親
知的さのカケラはどこに・・・?

学歴を積めば、即賢い人認定されるわけではない。

世の中では常に新しい知見が見いだされ、常識は書き換わる。
故に、活字を通して、また言葉を通して、自分の深めたい知識を探求するのが知的な人間の生き様ではなかろうか?

しかし、父がサラリーマンであったときすら、専門書の類いを読みあさる、昇格試験を受けるために勉強するといった様を見たことが無かった。
端的に言えば、学び変容することに、まったく興味が無い人なのだ。

父と同じ年くらいの方が、歴史を学び、仏門の名著から教えを学び、賢人から知惠を学んでいるのに比して、なんと即興的・欲望的生き方をしているのだ、と我が父ながら落胆してしまう。

私の知的さがないのも、この親にして、この子ありということなのだろうか?
もう少し、学びに貪欲な人の子に生まれたかった。

私は世界を何色に見ているか?

アダルトチルドレン

交渉の方法を記した書物を読んでいました。
私はあまり交渉が上手くない。というより気が重いのです。
しかし、この書物を読んで、考え方を変える気になりました。

交渉を上手く進めるコツは
・事前準備(理論武装)をする
・相手の望みを知る
・共同の問題解決に持ち込む
・普段から練習する
・沈黙を使いこなす
なんだそうです。

この中で3番目の「共同の問題解決に持ち込む」というのが、目から鱗でした。
交渉とは、「自分の利益を優先する為に、人に犠牲になって下さいね!」ということだと思っていたので、共同の問題解決という概念が持つ認識がありませんでした。

考えてみれば、物を買うときは売る側も売れるというメリットを享受できるし、近所に苦情を言うときは相手方がトラブル回避できるというメリットを享受できるのですから、けしてこちらの利ばかりという訳ではなさそう。
ですが、交渉というと、つい目線が自分の足元ばかりに集中して、相手のメリットという視点が抜け落ちてしまい、緊張してしまうのだと気づきました。

ちょっと話は逸れますが、ここ最近、言葉について「こういうと角が立ってしまうのに対し、こういうと角が立たずスムースに行くのはなぜなんだろう?」と考えていたことにも繋がる問題です。
例えば、難しい話をメールで説明して、最後に「分かりましたでしょうか?」というと、なんだか偉そうで角が立つのに対し、「ご不明な点があればいつでもご連絡下さい」と言えば、角が立たないといった話。

この態度の差はどこで生じるか?の考察を進めると、「自分の元々持つ世界を自分がどう解釈しているか」にたどり着きました。
世界を「自分を貶める敵色」に見ているときは、相手は攻めてくる存在ですから、常に臨戦態勢だし、言葉イコール文句と解釈してしまいます。
交渉は敵との戦い故に、勝つか負けるかに気を取られ、相手を負かすことに全精力を注ぎます。
一方、世界を「協力し合える仲間色」に見ているときは、たとえ目の前の問題が対立の様相を呈していても、どこかにわかり合える場所があるよね?と思って話を進めるので、リラックスして臨めるし、言葉イコール翻訳ツールと解釈します。
社会的背景が違うから、表面上言葉を交わしただけではわかり合えないけど、よくよく相手の腹を聞いてみると、合点のいくところもあったり譲歩が出来る場所もあったり、はたまた発見しちゃったりと、面白いことが見つかるのです。

この何色に見るか?は主に幼少期に大人がどう接してきたかに依ります。
「○○しちゃだめ」「こうやるもんでしょ?!」と大人が一方的に子供に論を押しつけるコミュニケーションスタイルを取った場合、子供はわかり合うことよりどちらが強いかを会話の重要点と理解し、継承します。
一方、「あなたはどう考えるの?」「なるほどそういう考えもあるね」と大人が子供の意見に耳を傾けるコミュニケーションスタイルを取った場合、子供はわかり合うことこそが人と人を繋ぐ方法なんだと学習し、継承します。

赤子は生まれたときは、頭の中がまっさらな状態ですから、どの色に染まるかは、まさに親のコミュニケーションに依存するのです。
人が好きとか人が嫌いとか、そういうこと以前に、そもそも人をどう見ているのか?
敵か仲間か。
これが一番大きい要素な気がします。

一度自分が何色に染まっているか考えてみてはいかがでしょう。
あなたがうらやむ人気者のあの人は、仲間色に染まっていると思いますよ。

AC相談窓口の返答No.1後編

ACメール相談

続きです。

問題の根源、見つかりましたか?
一体何でしょう?
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
 ・
それは
上司が自分勝手に高い合格ラインを決めていること
です。
上司が合格ラインを明示しなければ、貴方は部下をどう育てていいか分かりません。
そして、合格ラインが現実離れしたものであれば、そもそも達成しようもありません。
問題の根源は、深く考えずに命令を下した上司(の思考)という上流にあるのです。

これを現実問題に当てはめてみますと、
上司-母親 貴方-聡美さん 部下-聡美さんの持つ実力
となります。

今、聡美さんは自分の実力(部下)が
 どうせなにをやってもだめだ!
 馬鹿にされる
 いじめられる(まともに取り扱うに値しない)
と思い込んでいます。
その一方、自分の実力(部下)は
 前よりマシになった
とも思っています。
即ち、目線が自分の実力(部下)という下流に向いています。
でも考えてみて下さい。
下流を作ったのは?
そう、上流です。

なので、上流である母親に注目してみます。

母親の胸の内を想像してみましょう。
母一人で子供を育てるプレッシャー、
先天性の持病がある我が子への心理ハードル、
一人で子育て+我が子の持病という2重の苦難を背負った状態。
孤軍奮闘する中、”負けないぞ!”という気持ち、そして”周りと同じレベルの生活をしてみせる!”という反骨精神。
聡美さんの母親、さぞや、気を張ってこられたことでしょう。
そんな中、我が子に掛ける期待は、普通かそれ以上。
相当の期待を掛けられたことは、想像に難くありません。

これは先の喩えで言えば、母親自身が「自分勝手に(高い)合格ラインを決めていて」、且つ、その合格ラインは明示されていない状態だったわけです。

え?
合格ラインは明かだったのでは?と思われるかもしれません。
「周りの同級生と同じくらい」 という合格ライン。
では、同級生の誰を対象にしましょうか?
その人が対象として相応しいといえる根拠は何でしょうか?

仮に学校の成績が真ん中の生徒を対象にしたとしましょう。
しかし、その生徒が出来たからと言って、即皆持っていて当たり前の実力とは言い切れません。
実力の有無は、置かれた環境に依存するからです。
例えば、泳げるようになるには、身近に泳げる施設が要ります。
でも、日本全国全ての学校にプールがあるわけではありません。
(少なくとも20-30年前は北海道の小学校にプールはありませんでした)
プールのない地方出身の人々にとって、泳げないことが当たり前であるのに対し、プールのある地方出身の人々にとって、泳げることが当たり前です。

このように環境によって、当然とされる実力は違う。
ではこれを個々の家庭環境や生まれ持った身体特徴に当てはめて考えるとどうでしょう?

みんなバラバラですね。

つまり、当たり前の実力などというものは、存在しない。
「周りの同級生と同じくらい」 という合格ラインも、存在し得ない。
「お前は何をやってもだめ」の「何」や、「~の分際で、もっと努力しろよ」の「努力する内容」は、聡美さん独自の環境を勘案しない、ムチャクチャな要望だったのです。

なので、「どうやってモチベーション維持をするのか?」の問いには、ズバリ「どーもしない」と、答えます。
肩肘張って、何かやるぞー、自己肯定するぞー、なんて思わなくていい。
力を抜いて、自分が欠点だと思う部分を「こーいう性質もあるんだなー」くらいの距離感で眺めていればいいんです。
たぶん欠点と思っていることは、現実離れした合格ラインが導いたまやかしです。

映画「男はつらいよ」のフーテンの寅さん、ご存じですか?
日本国民に愛されるキャラクターです。
寅さんは、けしてたくさんのもの(実力)を持ってはいません。
いっぱいもっているから、愛される・大切にされると保証されるんじゃない。
むしろ自分も弱いから、相手が弱いのもありだな、受け止めることができる。
そんな寅さんの人柄に多くの人が救われています。

聡美さんのお母様は、自分を世間に受け入れてもらう手段として、聡美さんに必要以上の出来を求められた。
その出来に、あなたはいつまで拘りますか?

もうそろそろ出来なんて殻、脱ぎ捨てて、欠点だらけと思っている自分を正視しましょう。自分の欠点に向き合える人は、周りを安心させ、周りと打ち解けます。
そうすれば、きっと聡美さんの望む幸せが手に入りますよ。

AC相談窓口の返答No.1前編

ACメール相談

お待たせしています。
聡美さん、こんにちは。

今回いただいた命題[気持ちが常時成長に向かった状態にするには?]について、考えてみました。
ちょっと長いので、前編と後編に分けてお話しします。
前編で一端時間を置き、間隔を空けて後編に移りますので、是非考えてみて下さい。

では、さっそく行きましょう。
最初に、ちょっとした想像をしてください。
貴方はある会社に勤めていて、この度貴方に新人の部下が付くことになりました。
貴方の上司は、「入社して3年、君が培ったノウハウを是非彼(部下)にも教えてやってくれ!」と発破をかけてきます。
”期待されている!”と思った貴方は、彼が成長できるよう、懸命に教育を施します。

しばらく経ったある日、上司が様子を見に来ました。
一通り彼の仕事ぶりをみた上司は、貴方に「どうなっとるんだ!!こんなんじゃ使いものにならん!」と叱責してきました。
叱られるとは露とも思ってもいなかった貴方は、”自分の指導の仕方が足りなかったんだ”と猛省し、前にも増して教育に励んだのでした。
しかし努力の甲斐もむなしく、上司からいい評価を得られません。

そういうことが何回か繰り返され無力感に襲われた貴方は、やがて”全ては無能な部下のせい”、と責任逃れするようになりました。
結果、貴方は上司の信頼を失い、彼は一人前になること無く会社を辞めてしまいました。

さてこの場合、問題の根源はどこにあるでしょう?
出来の悪い部下ですか?
満足に教育できなかった貴方ですか?

今日はここまで。

AC相談窓口の便りNo.1

ACメール相談

聡美と申します。30代です。親は母だけ健在です(父は10代で別居し行方知れずです)
お忙しい中にご相談してしまい申し訳ございません。今回AC(女性)の相談窓口を開設されたと知り早速ご連絡いたしました。

今回一番お聞きしたいことは自己成長の意思継続方法をお聞きしたいです。

私は先天性の持病があります。それが基盤になり様々な課題を抱えています。例えば対人恐怖/マイナス思考(自己否定で現実を見ないようにする)/会話ができない(緊張)などです。

幸いなことに信頼できるカウンセラーに出会えたことや、ここのブログが励みになり「どうせなにやってもだめだ!」「馬鹿にされる・いじめられる」と考える過去の私と「でも前よりはましになったでしょ」という成長したい欲が常に拮抗している状態です。

思考は成長した方がいいとわかっていても余裕がなくなると過去の私が邪魔をします。援軍に加わるのはACの原因を作った母の記憶です。
最近はいつも彼女に言われた言葉が常に再生されます(お前は何をやってもだめだ。~の分際で、もっと努力しろよ、普通じゃない、おかしい、足を引っ張るだけ」

以前カウンセラーの先生は「変化する過程で倍以上の力で過去にひっぱられる」と説明されました。事実今がこの状態です。

成長を継続させるにあたり、そのひっぱられる力に負けないようにしたいですがいつもブログを拝見できるわけでも、ましてや相談できるわけでもありません。

その場合にどうやってモチベーション維持をすればよいか気になります。
KOMAさんはどういった方法でモチベーション維持をされているのかご意見をいただきたいです。(ブログで整理する以外に何かアクションはされていますか)

以上です

許容する社会

対話

NHKあさイチという番組で、「年収の高くないシングル女性にもマンション購買意欲が高まっている」例を紹介していた。
家を買うといえば、昔は年収の高い人に限られていたが、昨今はその垣根が取り払われ、所得にかかわらず購入出来る手段が用意されているようだ。

あまり深く考えず画面を眺めていたが、ふと、これってすごくいいことなんじゃないか!と感じた。
というのも、「年収が低いからダメね」と一蹴されていたものが、「工夫しだいで手に入る」という世界にシフトした、という意味で選択肢が増えたことになるから。

選択肢が増えるということは、自由度が広がるということ。
より自分の意向を反映しやすい社会って、生きやすい社会なんじゃないだろうか?
もちろんマンション業界が売る対象者を増やして、売り上げを上げようという魂胆がないとはいえない。
ローン制度を賢く利用して、いざというときに借金で首が回らない事態は避けないといけない。

手放しで喜べる!楽して手に入る!とは違うけれど、努力しても先になにもないというより、努力したらこんなものが手に入る!と見えている方が、努力しがいがあるというもの。

私の頭の中はこのマンションの話に触発されて、全ての事は「ありえなーい」と切り捨てる前に、「ん?待てよ。もうちょっと考えてみたら可能性あるかも」と踏ん張ることに興味が向いていった。
「あれがダメ」「これがダメ」と制約の中で生きていた私たちは、何事も自分がすでに構築した常識と照らし合わせて、実現の可否を判断する。
そのこと事態は、一から考える手間を省くという意味では、忙しい現代に即した生き方なのだろう。

でも、既知の考えに即して答えを出してばかりでは、変化を生むことはできない。
もっと発展し、もっと人々を自由にするためには、時に立ち止まってホントかな?と疑うことだ。
MCのV6井ノ原君が、シングルの女性を番組で取り上げることが少子化を進めるので辞めて欲しいと苦言を呈する視聴者の意見に対し、「それで少子化って進むんですかね?本当にそれだけが理由でしょうか?」と立ち止まって考えていた。
この一言で視聴者の思い込みが一歩進んだ形に昇華したと思う。

自分の常識を盾に外の世界に向けて、「オマエが悪い」「オマエはお呼びじゃない」と叫んだって、排除された側は簡単に賛同しないだろう。
むしろ排他的発言をした人を毛嫌いし、避け疎む。
そうやってギスギスした社会の中で、「寂しい、寂しいよぉ~」と嘆く人がどれほどいるだろうか?
むしろ、「一見するとその意見が通りそうだけど、他の意見や可能性もあるんじゃない?」といった許容のスタンスでいる方が、寂しくない未来が待っている予感がする。

金持ちだって、ビンボーだって、安心して暮らせる家は欲しいよね!
○○したい!欲しい!という気持ちを大切にしよう。
その気持ちを実現できるよう頭をひねれることが、自由に一歩近づく方法だと思う。

親友という概念から自信を理解する

アダルトチルドレン

「どうやったら、自信が持てますか?」
この問い、多くの人が抱えているだろう。

ありがちなのは、条件をクリアしたら。
条件とは、
試験に合格する
有名処に就職する
恋人が出来る
モテる
イケメンに生まれる
などなど。

でも、それではまやかしの自信しか生まれない。
もっと継続的で、確からしい自信を探すために、一度自分を客観視してみましょう。
とはいっても自分を客観視するのは難しい。
そこで、親友という自分の外にある存在を通して、自信について考えてみたいと思う。

友達と親友の差とはなにか?
これは人によるし、年代にもよるところが多い。
友達とは、一度でも接触したことのある人、親友とは接触頻度の高い人、と定義する人がいるかもしれない。
今回は、友達とは楽しい時間を共有できる人、親友とは楽しい時間も苦しい時間も共有できる人と定義したい。

苦しい時間、それは自分の欠点に向き合わねばならない時間。
試験に落ちた、恋人に振られた、友達とケンカした。
そういう自分にとって苦い思いを抱いたとき、親友にだけは気兼ねなく話せる。
話を聞いてくれる。
そう、最初から信じられる相手。

そんな親友。
あなたからみてどんな存在?

それはあなたのことを思ってくれる存在。
あなたのいいところも、悪いところも受け入れてくれる存在。

実はこれが自信の正体です。
いいところも、悪いところも受け入れること。
むしろ悪いところを積極的に受け入れること。悪いことがあっても見捨てないこと。
悪いところを悪い!と一刀両断せず、しょうがないなぁと受け入れてくれること。

世の中にカンペキな人はいません。
誰しもがいいところと悪いところを持っている。
なのに、あなた自身が悪いところを悪い!と決めつけ、切り捨て、自分を痛めつける。
そうやって自尊心を傷つけ、自信を喪失させているのです。

だから、あなたの親友があなたにしてくれたように、あなたもあなたの悪いところをしょうがないなぁと受け止めればいい。
背が低くても、字が汚くても、いいんじゃない?と受け入れること。
そうすれば、痛めつける手間が省けるだけでなく、痛めつけられて傷つきいじけるということもなくなります。

だめな自分を許す、受け入れる先に自信というものは、自然と湧いてきます。
条件ではない。あなたそのものの持つ価値を認めるだけで、何の根拠がなくとも、自信を持てる。
今日はそういう自信だってあるんだな~、くらいに思っておいてください。

プライドって何のために存在するのか?

対話

作家、池井戸潤さんの作品が面白くて、ここ最近立て続けに読んだ。
全ての作品の中で謳われているテーマが「矜恃」。

銀行マンとしての矜恃、技術者としての矜恃。
矜恃とはプライドという単語と置き換えることも出来る。

プライド。
これならよく耳にする単語だろう。
「そんなのプライドが許さない」
「プライドの高いヤツだな~」

どちらかというとナルシシズム(自分酔い・自分よがり)のようなニュアンスを含む感じがする。
少なくとも私はそう感じていた。

ところが、書籍「幸せになる勇気」の

すべての人間は、過剰なほどの「自己中心性」から出発する。そうでなくては生きていけない。しかしながら、いつまでも「世界の中心」に君臨することはできない。世界と和解し、自分は世界の一部なのだと了解しなければならない。


という言葉に触れたとき、プライドという概念が根底から覆った。

私たちは生まれた瞬間にはプライドを持たない。
経験を重ねる内に、これをやると、自分が落ちるな、落ちぶれるな、と感じるものをやらないという意思を持ち始めて、プライドという概念に出会う。

でも、プライドの正体はそれではない。

自分が焼き肉を食べたくても、俳優で減量をしなければならない使命を背負っているから、俳優のプライドにかけて焼き肉を我慢するのである。
すなわち、焼き肉を食べたい自己中心性を脱却して、俳優という世界の一部として働くことを了解する。
これがプライドである。

最初は自分を落ちぶれさせないものであったのが、いつの間にか自分という感覚を失せさせ、世界の一部となる橋渡しとなるものに変容する。
プライドの意味は変わるのである。

6年前自分という感覚が失せるという文言に出会ったとき、その意味を掴むことができなかった。
ところが、池井戸作品を読み進める中で、我欲ではなくプライドで動く主人公に心奪われた。
魅力的なのである。
先にプライドがあって、あとから主人公が付いていく。この構図に1mmの窮屈さも感じない。
それどころか、主人公は飛躍していく。
仲間と共にプライドを持って、もっと大きな世界へ羽ばたいていく。
皆で次のステージに羽ばたくことで、共に成長している、自分は社会に役に立てているという幸福感が生まれる。
自分という感覚を失う方が、自分を幸せに出来るのだ。

「プライドを持ちなさい」
それは、自分が幸せになるための大切な教えなのだと、今頃になって気がついた。

自分のプライド、持っていますか?