優しさ通貨

人によって「優しさ通貨」が使える人と使えない人がいる。

優しさ通貨とは、相手を思いやる優しい気持ちのことを指す。


人と人は、役割として繋がることが出来る。例えば、仕事のプロジェクトを達成
するための人員としての繋がり、生徒会の実行委員どうしの繋がり。
これらの繋がりは、役割が終了すれば、切れる。

一方、なんらかの理由で接点が出来て、優しさを互いにやりとりできるように
なれば、役割という枠を超えて、繋がれる。
優しさには、範囲がない。

だけど、哀しいことに、「優しさ」という名の通貨が見えない人がいる。
見えないと、触ることも、受け取ることも、差し出すこともできない。

人間社会で枠を超えて人と繋がるための通貨が、この優しさ通貨なのに。

貨幣経済で考えると、健全な経済とは、通貨が滞ることなく循環している様子を
さす。経済が好循環になると、やがて外貨を取得し、さらに自国が潤う。

人間社会も同じ。優しさ通貨が人の間で、うまく循環すれば、やがて別の相手に
も与える余裕が出来、より多くの人の間で、優しさ通貨がやりとりされ、人との繋
がりを感じられる心豊かな世界になる。

けど、裏を返せば、優しさ通貨がやりとりできないときは、人間社会が殺伐と
して、誰も信じられない世界になってしまう。

難しいことに、この優しさ通貨は、実際に触ることも見ることも出来ない。
精神が成熟していれば、いとも簡単に扱えるのだが。

私の配偶者は、優しさ通貨が見えない人だ。
だからすべて物事を事象で判断しようとする。

配偶者は誤ってだれかの足を蹴ってしまったら、相手の足は痛いだろうから
謝ると考える。
それ自体は間違いではない。
ただし、蹴る度合いにも依るが、相手は痛みより「なんで蹴るんだ[E:annoy]」という
ムカつきの方が大きいと思う。
人間は腑に落ちない攻撃をされると、不安と怒りが襲ってくるから。
でも、配偶者は相手が不快に思ったことは気にしない。

だから相手の理不尽な思いを解消し、相手の気持ちを平常に戻そうという
優しさや気配りができない。
表面上は「ごめんなさい」というだけだから、どっちでもいい気がするが、
前者の場合、相手は少なからず表面的に謝られた感じがする。

男性には結構こういう考えの人がいる気がする。
合理的だけど、深くかかわれる気がしない。繋がれない。

どうしろとは言えないけど、こういったタイプは一人で生きた方がいいと思うのは
私だけでしょうか?