子供の優劣に拘りまくる親にかける言葉

子供の就職活動にしがみつく親に関する記事を書きました。

記事では、親のことを批判するような内容でしたが、果たして批判された親は素直に話に耳を傾けるでしょうか?
いえ、傾けませんね。
「どーせ、アンタは他人事だから好きなこと言えるのよ。当事者になったらそうもいってらんないの(怒)。だって近所で訊かれるでしょ?『子供さん、どちらにお勤め?』ってね。そのとき、就職してませんとか、名前も知らない企業を出したら恥をかくのはこっちじゃない。きっと近所の笑いものになるわよ」
と言うでしょう。

つまり子供の幸せを優先した正論など近所の噂を前に、もろくも吹っ飛ぶのです。

近所の評判(自分への評価) >> 子供の幸せ(子供の意志の尊重)
比較すると滑稽なのは一目瞭然ですが、でも実際そうなのです。

「じゃあ、お母さんアンタ、子供の幸せはどうでもいいと?」と訊くと、「そんなわけない。大手に勤めたら子供だって幸せになれるはず」と言う。
そこで、大手企業に勤めたいのはその母親のエゴじゃないかと責めても、「世間が~」「みんなが~」という理由を盾に首を縦に振らない。
話は平行線です。

そういった裏で、子供は意志を潰され自信喪失やひきこもりに見まわれる。
お母さんを責めるのは、どうも得策ではなさそうです。

では考えを根源に戻して、なんでまた親が近所の評判や世間の価値観にそこまで迎合するようになったのか考えてみます。

そうすると親の親もまた同じ価値観だったことが見えます。
かつて日本は村社会であり、一人一人の個人の尊重よりも家の名誉を守ることが優先されてきました。
名誉というのは、他人から与えられるものなので、なににもおいて他人の評価が力を持ったのです。
「お家(いえ)に泥を塗る」という単語があるのも、まさに家がまるで人格かの如く扱われてきた証拠でしょう。

自分の曾祖母からさらにさらに遡ると、個人の尊重などどうでもよい時代があったのです。
ところが日本が敗戦して、男女平等の意識、個人の尊重などが憲法に定められました。
海外から「個」という概念が導入されたのです。
でもそれは本当に生活に根付くような思想ではなく、形骸的でした。
形骸的であっても、敗戦後日本は鮮やかな経済成長を遂げ、「なーんだ、個なんて尊重しなくても、従来通りの価値観で十分じゃん!」と皆さん思ったわけです。

ところが
今は不況です。
好景気では、ガラス玉もダイヤモンドもそれなりの価値だったのが、ダイヤモンドしか価値がありませんという時代になった。
ガラス玉は、通り一辺倒の仕事が出来る人材です。
ダイヤモンドとは、付加価値を作ることの出来る人材です。
海外では急速にダイヤモンドになりうる「個」として創造力のある人間が求められるようになりました。
それにつられて日本でも、普通のガラス玉ではなく「個」として輝ける人を求めるように変わってきています。

価値観のダイナミックなシフトが起こりつつあるのです。

だからこそ、江戸時代?みたいな「みんなが~価値観」で子供を押さえつけようとすれば、金の卵どころか廃棄物を産む卵になっちゃうわけです。
時代の変化にそって価値観を変えなければならないところへ来たのです。
そこまで話しても、「でも、でも」という親もいるでしょう。
その親は何ゆえ古い価値観に縛られるのでしょう?

それは、「自分も『個』の世界を生きたかったのに、それが出来なかった恨み」が理由です。
自分の過去の後悔や恨みを晴らしていないのに、まんまと子供にだけいい思いをさせる気になれないというわけです。
そういう親は、本当にしつこく古い価値観を押しつけます。
もはや狂気じみているといってもいいほどに。

だから親にカウンセリングが必要なんです。
「あなた(親)は、本当は○○をしたかったんだね。」とか「○○をしたいと思うことは、若い頃のあなたなら当然じゃない。今から習い事でもいいから○○してもいいんだよ」という”自分の希望”を受け止められる経験をすることで、「長年できなかった~」という恨みがましい思いから解放されるのです。
そうしたら他人(我が子)にも自由にしなさい、あなたの意志を尊重するわと言えるようになるのです。

人は、「アンタが悪い」と言われて、「ハイ、そうですか」と言えないのです。
悪いこと、間違ったことをするにはするなりの理由がある。
その理由を丁寧に確かめていった先に、悪いという感覚が見つけられるのです。

親だから、背負った石を下ろすことは出来ないということはありません。
工夫次第で下ろすことも、別の軽い石を乗せることもできる。
そのやりかたを考えていくのが、まさに「対話」のなせる技です。