人間の距離と軋轢

親しい人が欲しいと思う一方、近くなり過ぎると諍いが起こる、なんともジレンマですね。

本当はみなさん、気心知れた仲間が欲しいと思っている、なんでも相談したいと思っている。

でもその可能性を求めて、感触の良さそうな人と付き合ってみるも、しばらく立つと違和感を感じるか避けられる。そして絶望するんです。「私は孤独だ」と。

ところが「孤独だ」と悟ったわけじゃない。拗ねているだけ。
だからしばらくするとまた、仲間捜しに出かけたり、仲間がいない事をあがき始めたりする。
「だって、やっぱり寂しいんだもん」って。

でも、それって真の人間関係を分かっていないと思います。
もし真の人間関係を分かっていれば、仲間は出来るし、軋轢も生まない。
よく相談サイトに人付き合いのマイ心得が書いてあって、①親しくなっても礼儀を忘れない②聞き役に徹する③相手を否定しない と挙げられている。
この心得は即ちどういうことなんだろう?

我々は親しさの尺度を取り違えている。
親しさとは、幼少期の親子関係に類似したものだとと捉えているのだ。
なんでも好きなことを言い合って、なんの遠慮もなしにつきあえることこそが親しさだと思っている。

だから親しくなると突然礼儀がなくなる。
夜中に電話をしようが、愚痴をたくさん言おうが、相手の気に入らない所を注意や否定しようが、「親しいんだからいいでしょ」の一言で処理される。
しかしされた側は、一般的にもやもやすると表現されるような”失礼じゃないか”という怒りや”利用されているだけ?”という虚しさに気持ちが押されて、距離を置くという手段に出る。
それしか自分を守る術がないから。
そうすると礼儀をなくした側は益々、「なんで?」と食い下がり、「親友じゃないの?」とか「あなただけは私のことを分かってくれると思ってた」と脅迫を始める。
ここまでくると修復不可能。
どんなに境遇が似ていても、趣味が一致してもダメ。
人間関係は壊れる。

せっかく築いた人間関係、なんでこんな悲しい結末になるの?である。
ではそもそも人間はなんなのか?と考えたとき、まず大前提となる一つの真理がある。
それは

人は皆、孤独であるということ

生まれてくるのも一人、死ぬのも一人というのは誰もが納得することだろう。
その上で、自分の身の上に起こる全てのことは、自分単体に起こっているのであって、友人や親には起こらないし、自分の持つ感情は、友人の感情にはならない。
辛うじて理解されることはあっても、当人同様に体験したり感じたりは不可能だ。

それこそが孤独の正体である。

その孤独を受け入れないで生きると、孤独が怖くて背を向けて一緒に孤独を背負い込む仲間を見つけようとする。
ある事柄に対して、うまく孤独を分散できる人(同じ境遇の人)を見つけたとしよう。
話は盛り上がり、「分かるぅ」や「大変だよね」を連発して、”あっ、やっと孤独から抜けられた”と喜ぶ。
しかし人生は度重なる試練の連続。
また別の事柄で孤独が押し寄せる。そのとき、”あの人なら分かってくれるハズ”と思って連絡をする。
しかし相手は家族問題に振り回されていたり、昇進試験の最中であったり、はたまた失恋中かもしれない。
時間を取ってくれない。
やっと時間をとってくれたと思ったら、「えっ、私はそうは思わないなぁ」と以前とは違う態度。
我慢強い相手なら引きつり笑顔で、「そうなんだ~、大変だったね」とは言ってくれるだろうが、共感とまではいかない。
それに納得しない言いだし側は、「前は、もっと分かりあえていたよね?」と迫る。孤独が怖いから一人で背負うなんてできないという理由で。

孤独を受け入れている人にとって、それほど鬱陶しいことはない。
”なんで私がアンタの感情の引き受け手なの?””そんなの知らんがな”

もし偶然双方が孤独を受け入れてなかったとしたら、それはそれで依存を生む。
互いが”私を分かってくれるのはあなただけ”と”あの子を分かるのは私だけ”という病的な思いやりで満たされて、互いの首を絞めあう。
最後、絞めすぎて、どちらかがギブアップ。

つまりを以て、孤独でない人はまず人間関係を保持することが不可能なのである。
そして孤独を受け入れたからといって、即仲間が出来るということでもない。
孤独は軋轢を生まない最低条件であって、人と繋がるための条件とは違うのだ。

自分も相手も孤独であることを受け入れた先に、孤独だからこそ、瞬間瞬間に交わる大切さを守ろうとするものだけが、仲間を得ることができる。
まったく同じ人生を歩むことの出来ない、完全に理解し合うことの出来ない間柄だからこそ、最大限の想像を働かせて相手を知ろうとし、その努力が人間関係の構築を保持にうまく作用するのだ。

とするならば、最初のマイ心得に戻って、
①親しくなっても礼儀を忘れない②聞き役に徹する③相手を否定しない
という話になる。

これは孤独を受け入れている人ならば、考えるまでもなく当然のことである。
相手はどこでどう捉えるか分からない。
だからこそ、知ろうとする努力と、相手を尊重する態度とが欠かせない。

サークルやママ友を通して近すぎる人間関係が、様々な問題を起こしているようであるが、これらの人々が孤独を受け入れていない団体であれば、非常に納得がいく。
孤独を受け入れている人間はごくわずかだ。

だから自分が孤独を受け入れていない限り、相手も孤独を受け入れていない限り、近しい距離は避けて、まあまあのスタンスでお付き合いする方が無難という結論に達するのは至極全うな考えであると思う。