自らをクズ定義するアダルトチルドレン

眼科の待ち時間にぼけぇ~と本を読んでいたら、興味深いことが書いてあった。

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1960年代アメリカ。

ある鉄道会社が経営の岐路に立たされていた。
経営のトップは「我が社は鉄道会社だから、儲けを出すためには路線を増やすとともに、皆に乗ってもらえるよう安全性をアピールしよう」と経営方針を固めた。
数年後、航空会社の台頭により鉄道会社の経営はより逼迫したものとなった。

では、経営のトップが「我が社は輸送会社だから」と定義したらどうだろう?
輸送手段として、海路・空路・陸路のどれに注力すればよいか という広い考えから解を導けたのではなかろうか。
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このことは自らを何と定義するかによって、その後の考えが全く違った方向に走ることを示唆している。

さて、我々アダルトチルドレン(AC)は「自分を好きになりましょう」や「自らを愛しましょう」と言われても、まったくもってできない。
それは、自らを価値のないクズだと思っているから。
クズはどこまでいってもクズで、宝石と同様の扱いは不可能。

ならば、クズと定義していることそのものを再定義し直せばいいのではないだろうか。

円周率を定義する、1という数字を定義するのに感情は要らない。
我々ACも感情を不要とする定義なら、抵抗なく出来る。

たとえば、自分を「ひょっとして○○な能力があるんじゃないか?」とほのかに定義してみる。
これは誰しも自分にはちょっとは優れたとこあるんじゃないか?ぐらいは思い当たるのでやりやすいと思う。

私なら、「記憶力がよい」とか「無関係な物事を繋げて新たな視点から見ることができる」などの能力。
能力はなんだっていい。缶集めでもいいし、絵を描くでもいい。
そいういう能力を率直に定義してみる。

するとクズだと思っていた気持ちが少し薄れる。
意識がダメだーから、ひょっとして?!の方向に行く。

大きな一歩は要らない。小さな一歩でいい。
「ある」ことを意識することで「ない」ことを忘れるのはとってもいいこと。
何回か続けていくと、ちょっとばかり自分の中で自分のイメージが変わる可能性が高い。