論理性が生まれない背景とは?

人の話を聞くとき、話が論理的であればあるほど、理解しやすい。
でもいざ、自分が話そうとすると、論理的に話せない。
それどころか、論理的に話せる人そのものが少ない。
故に、論理的な人は尊敬される。

皆さんは、論理的な話が理解しやすいという体験を以て、論理的であろうとする。
では、論理的であることはいいことなのか?

私が考えるに、そもそも脳は出来事を「論理的」に掴むように出来ている。

絵を描くときに、ほんの些細なものから書き始めるのではなく、全体の構成を決め、軽くラフ画を描き、最後に細かいパーツを描き込むように、話もおおよその手順というものがある。
その手順通りに話が進むと、脳に特定の絵が出来上がり、多くの人が共有しやすい。

ならば、なぜ、論理的に話すことが出来ないのか?
出来事を「論理的」に掴む(INPUT)のならば、「論理的」に話(OUTPUT)できそうなものなのに。

そのINPUTとOUTPUTに隔たりを生む理由が、「心理的障壁」である。

人は、なんらかのフィルターを介して物事を理解する。
フィルターは、例えば「自分は悪者だと思われたくない」であったり、「どうせうまくいかない」であったり。いわゆる保身のような気持ちがちょっかいを出してくる。
そのちょっかいを前に「オレはそうは思わないけど」という前置きや「できるかどうかわかんないけど」といった枕詞が入る。

それだけならまだしも、保身を重ねすぎて、何の話か分からなくなることすらある。

このようなことは、なにも話すに留まらない。
態度・行動にも出る。
例えば、ゴミ屋敷・○○依存・△△カースト・家計崩壊・不倫etc。

これらは百害あって一利無しということは、頭では分かっているけれど、保身という欲求を前に、振り払えずにいる。
このような行動にまみれている内は、それに気を取られて、できない自分や弱い自分に向き合わなくていい。

でも、そんなものにどっぷり浸かる人生に、真の幸せは訪れるだろうか?
少なくとも、当人が活き活きと胸を張って生きられるとは思えない。
かといって、他者が「やめろよ!」と言って止められるほど簡単でもない。

では、どう手を打つか?

それは、出発点に光を当てることである。
行動はそのままでいいから、なぜ保身的行動をしているのだろう?それによって得られる利益はなんだろう?と考えてみることだ。
一般的に利益に見えないものであっても、その人にとっては利益ということはある。
ゴミ屋敷なら、「足りないものはない」と焦らなくていい利益だとか、「捨てる罪悪感を抱かなくていい」という利益だ。

利益が確定すれば、「本当にそれは利益として働いているのか?」を考える。
そしてもっと大きな利益がないかも考えてみる。
考えてみて、心から利益だと思えるなら、そのままでいい。
でも、そう思えないなら・・・、本当の利益を探さねばならない。
手元にある利益は、本当の利益の代わりなのだから。

大概本当の利益は、他者から見ても利益に見える。
つまり、合理的で論理的で、無駄がない。
皆に認めてもらう必要はないのだが、意外と人の眼というのは、論理的かどうかを見抜くのに優れている。
その眼の力を信じてみないか?

たぶん論理的であること、イコール、素である(無装飾) のだと思う。
人の脳が論理的に理解するようになっていることからも、論理的に思考することが人間の一番自然な姿なのだ。
だからこそ、ひねくれて論理的ではない世界に陥っている人々とも論理的に話をしていこう。

まずは自分が論理的に話せるようになるまで、ひたすら自分の中に陥入してくる保身に眼を向ける。
保身に走らざるを得ない自分の話を聞いてやることが、論理性を手に入れる第一歩。