許容する社会

NHKのあさイチという番組で、「年収の高くないシングル女性にもマンション購買意欲が高まっている」例を紹介していた。
家を買うといえば、昔は年収の高い人に限られていたが、昨今はその垣根が取り払われ、所得にかかわらず購入出来る手段が用意されているようだ。

あまり深く考えず画面を眺めていたが、ふと、これってすごくいいことなんじゃないか!と感じた。

というのも、「年収が低いからダメね」と一蹴されていたものが、「工夫しだいで手に入る」という世界にシフトした、という意味で選択肢が増えたことになるから。

選択肢が増えるということは、自由度が広がるということ。
より自分の意向を反映しやすい社会って、生きやすい社会なんじゃないだろうか?
もちろんマンション業界が売る対象者を増やして、売り上げを上げようという魂胆がないとはいえない。
ローン制度を賢く利用して、いざというときに借金で首が回らない事態は避けないといけない。

手放しで喜べる!楽して手に入る!とは違うけれど、努力しても先になにもないというより、努力したらこんなものが手に入る!と見えている方が、努力しがいがあるというもの。

私の頭の中はこのマンションの話に触発されて、全ての事は「ありえなーい」と切り捨てる前に、「ん?待てよ。もうちょっと考えてみたら可能性あるかも」と踏ん張ることに興味が向いていった。
「あれがダメ」「これがダメ」と制約の中で生きていた私たちは、何事も自分がすでに構築した常識と照らし合わせて、実現の可否を判断する。
そのこと事態は、一から考える手間を省くという意味では、忙しい現代に即した生き方なのだろう。

でも、既知の考えに即して答えを出してばかりでは、変化を生むことはできない。
もっと発展し、もっと人々を自由にするためには、時に立ち止まってホントかな?と疑うことだ。
MCのV6井ノ原君が、シングルの女性を番組で取り上げることが少子化を進めるので辞めて欲しいと苦言を呈する視聴者の意見に対し、「それで少子化って進むんですかね?本当にそれだけが理由でしょうか?」と立ち止まって考えていた。
この一言で視聴者の思い込みが一歩進んだ形に昇華したと思う。

自分の常識を盾に外の世界に向けて、「オマエが悪い」「オマエはお呼びじゃない」と叫んだって、排除された側は簡単に賛同しないだろう。
むしろ排他的発言をした人を毛嫌いし、避け疎む。
そうやってギスギスした社会の中で、「寂しい、寂しいよぉ~」と嘆く人がどれほどいるだろうか?
むしろ、「一見するとその意見が通りそうだけど、他の意見や可能性もあるんじゃない?」といった許容のスタンスでいる方が、寂しくない未来が待っている予感がする。

金持ちだって、ビンボーだって、安心して暮らせる家は欲しいよね!
○○したい!欲しい!という気持ちを大切にしよう。
その気持ちを実現できるよう頭をひねれることが、自由に一歩近づく方法だと思う。