感情を理解されると、なぜ心は落ち着くのか?

人は自分の中にわき起こった感情を、他者に受け取られると、素直に行動に移行できる。
自分の感情なのに、他者に理解されることを求めている。
まるで、自分で自分に責任を取っていないかのよう。
その感情の発生源は、まぎれもなく自分なのに。他者は全くの無関係。

自分の感情を外に出す。話すことによって自分を客観視する。でも、そこに他者の理解がなければ、感情はその場に留まる。
理解されることによってのみ、感情は消失する。

私は今まで、「ノートに書き出してはどうか?」と提言してきた。
ノートに書き出しても、スッキリする。
しかし、他者に共感される方がもっと心の底から味わいを持って感情が消え去る。
しっかりかみ砕いて、消化した感じ。

ただの客観視なら、ノートで十分。なのにどうして他者の共感の方が、より深く感情を成仏させられるのだろう。

共感されると、ホッとする、心の底から自分を肯定できる。
自分の感情が正しかったと、当然だったと、言われている気がする。

そうだ!
自分と分離した他者が自分の感情を正当化してくることで、「そういう感情を持っていいんだ」という自己肯定感が生まれる。
客観的にみて、私の感情は起こるべくして起こったのだと、お墨付きをもらった気がする。
他者の共感によって、私は間違えていないという確証に繋がる。

誰でも自分を正しいと信じたい。
自分の正しさを証明したい。
だから他者からも自分の感情を認められると、その感情を持ったことが許される感じがする。
自分のあやふやだった感情が確定する気がする。

自分が今こう感じて、ここにいるんだ!ということを肯定したい。
私という存在そのものを、確定したい。
「我とは何か?」を求め、「感じた我」にお墨付きをもらい、私はここに居てよいのだという安心感を得たい。

自分という存在が認められ、確かなものになったときに初めて、冷静に次のステップに進もうとする。

私という不確定性を私という確定性に変えることが、他者に共感される意味である、と思う。