繋がりというセーフティネットが働かない時代

俳優の高畑裕太容疑者が性的暴行で逮捕された。
彼曰く、性衝動が止められなかったと。
しかし、だ。自分の立場を考えれば、過ちがどれほど大きな損失を生むか、容易に想像できる。
今週末の24時間テレビのドラマに出演し、現在放送中のテレビドラマに出演し、映画に出演しているのだ。
それも母親は女優である。
これ以上無いほどの迷惑を掛けることが、性衝動に駆られた瞬間に頭をよぎらなかったのか。

時期同じくして、4人の子供を母親が殺し、中学受験をめぐり口論となった父親が我が子を殺害した。
これもまた、殺人という最も重い罪なのに、命を奪うということの大きさに考えが及ばなかったのだろうか。

昨今の犯罪は、この罪を犯したらどうなるのか?という想像に欠けた人々によるものが多いと感じる。
世界に自分しかいなくて、自分さえよければ、自分が耐えきれないから、とあっさり相手を傷つける道を選ぶ。
その結果として、自分に関わってきた多くの人を傷つけることになるというのに。

ご飯を食べたければコンビニがあり、実社会に友達がいなくてもゲームやネットがあり、学校に行かなくても学ぶ方法が発達した現代、人の世話になり、人に頼る機会がめっきり減った。
頼らなくていい、よく言えば独立した世界は、いとも簡単に人を犯罪の道へと誘い込むのだろうか?

どんなに文明が発達しても、人の繋がりを切ることはできない。
無人島で、完全にゼロから文明をつくり、生きていける人などいないのだから。
ネットがあれば・・・という人は、そのネットという概念から見つけ出さないといけないのだ。もちろんその技術に取り入れられている様々な数式や物理方式も自らが見つけ出さなければならない。そんなことたった一人で出来るはずない。

生かされているという概念にあまりに欠ける。
自分がいる、ということは、相手もいる、ということ。
自分が便利と感じるということは、便利な道具を作ってくれる人がいたということ。
単独では存在できない、対になる相手が常にいる。
おごった考えで、まるで自分が神になったかのように、自分だけの物差しで世界を判断していいはずがない。

でも実際にこのようなことが起きているのだから、我々は自分以外の他者という存在に対して、今までとは違う哲学的倫理観を形作らなければいけない時期なのだ。
残念だが、学校で「人を傷つけてはいけません。自分も傷つけられたくないでしょ?」と教えただけでは通じない社会になってきたようだ。