賢そうに装っている自分にバイバイ

日常で接する方、ブログを通して接点を持つ方によく言われる私の印象

「賢そう」。

20代最後の年、私はそう言われるのが辛くて泣き出したことがあった。
私は賢くなんてない、なのになんで、みんなそんなこというの。
打ちのめされて起き上がれないボクサーのように、私の心は底へ底へ沈んでいった。

ホンモノの私は
中学の時の成績は5段階評価の3~4をうろうろ。内申点が足りなくて希望の公立高校に行けず、無理に理数系私立に行った腰抜け。
高校の頃、一夜漬けでばかり勉強したせいか、受験で歯が立たず、現役で第3志望の大学まで不合格。
大学に入ったら、専門分野が苦手すぎて、解答を丸覚えしてなんとか試験をやりすごし。
社会人になったら、めちゃくちゃ簡単なコンサルタントの基礎ともいえる問いに答えられず、周りから信頼を失う。

「賢そう」と言われる一方で、「意外!こんな問題も解けないの?」と言われたことも数知れず。

中学3年の時に、数字の3を4つ使って四則演算をし、0~9が解となる計算式を完成させよ、という問題が解けず、めちゃくちゃ恥ずかしかった。

おまけにとても気が弱い。
小学校1年生の時は、「トイレに行きたい」と授業中先生に言えず、大変なことに。
小学校3年までは、授業で当てられて、答えがわからず泣く。

賢くもなく、気持ちもしっかり持てず、の完全なるヘタレです。
でも一見すると、そうは見えない。なぜなのか?

思い当たる理由は、母親が「【立派な】子供でいなさい」と押しつけたこと。
自分の母(私の祖母)から子育ての烙印を押されないように、祖母がダメだと判断しそうなことを母が徹底的に私に隠させた。
なかなかの徹底ぶりだったので、私の頭の中には【立派な】子供でないと母は私をてる という恐怖心が根付いた。

自分の真の実力を隠し・繕い生きることは、自分を裏切ることであり、心はいつも不安定だった。
会社でバカばっかりやって、みんなを和ませ笑顔にさせている同僚がうらやましかった。
私にはそんなことできない。

だって、本当の私を知ったら、みんな私から離れていくと思うから

でもある時、気がついたのです。
ヘタレはヘタレの生きる場所があるんじゃないか?と。
いや、むしろ、ヘタレが生きられる場所の方が、賢く生きている人が生息できる場所より広いんじゃないかと。

例えば私が、東証一部上場会社の課長です!といって接してきたら、皆さんは身構えませんか?
でも、そこいらでゆる~く生活している人間ですと言ったら、親近感を持てる。

「親近感」
こっちの方が、私は好き、そして楽。
どんな人も受け入れる心の広さを感じられる。

祖母はそんな私を嫌うかも知れません。でももうこの世にはいない。
いない幽霊に縛られるより、今生きて私の周りにいる人の方が大切。
その人達を和ませられれば、それでいい。

本当の賢さは、繕いを捨て、隠し事をせず、目の前のことに真剣に向き合ったときに、知性として育まれるものだと思います。
なので、今日限り、今限り、捨てられるものはぜーんぶ捨てて行こうと思います。

時に偉そうなことをホザいていたら、「アダルトチルドレンの相談窓口」からでも、「偉そげに見えるよ、KOMAさん」とツっこんでください。
ヘタレKOMAに変身できるように、バシバシしごいてやってください(笑)。