「お前なんかゴミだ、死ね」という言葉に隠された真実

ずっと自分に対して「お前なんかゴミだ、死ね」という声が消えずにいた。
その声は、精神的に追い詰められると、より大きな声で私に向かってきた。
私が命の灯火を消しそうになったのは、たぶんこの声のせいだと思う。

この声は一体どこから来たのだろう?
ふと、探りたくなった。

私は実生活において、相手に似たような気持ちを持つことがある。
そういうときは、自分には味方がおらず、独りぽっちで苦境に立たされていると思い込んでいる。
どういう問題が発生したにせよ、人が極端な発言に走るときは、発言者の置かれている環境が問題なのかもしれない。

としても、言われたことを鵜呑みにする私も私である。
自分を傷つける発言を受け入れて、一体どんな得があるのだろうか?
心の奥深くまで降りていって考えた。
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そして、出た答えは、
母親に十分愛されていると感じられない中で、せめて母親と同じ意見の側に立てれば、わずかながらも母子一体感を感じられるメリットがある
だった。

これを知ったとき、自分に愕然とした。
それほどまでに、親の愛に飢えていたのかと。
自分を貶めてでさえも、母と一緒に居たい・感じたい。なんと寂しい子供なんだ、と。

周囲の環境が母を孤立させ、たまたま母の意に沿わなかった私が必要以上に傷つく言葉を受け、でも愛する母と離れたくないがために、自らが傷ついてでさえも、その言葉を飲み込んだ。
なんと悲しい物語なのだろう。

子供というのは、それほどまでに親の愛を求めるものなのだと、今この瞬間に知った。