心地よいスタンスはどこか

シロクマの屑籠に興味深い記事が掲載されていました。
孤独感がデフォルトになった時代

かつての地域社会では、村八分になっているような人を除けば、孤独は珍しいものでした。むしろ逆というか、孤独ではないこと・つねに他人とのしがらみにまみえて生きることがデフォルトで、そちらがストレスの源として危険視されなければなりませんでした。 

 ところが、今はどうでしょう。他人とのしがらみが最小化され、個々人の自由選択が尊重される都市生活に至った私達は、しがらみという名のストレッサーから大幅に解放された筈にもかかわらず、人々はストレスに呻き、心療内科の外来はいつも予約でいっぱいです。

・・・深く同意。

かつての地域社会はしがらみがあるがゆえに、孤独とは無縁だった。

そのしがらみが嫌で逃げたら、今度は孤独の罠が待っていた。
どうやらしがらみの抜け方を間違えたようです。

しがらみの全てが悪いんではないと思います。
気軽に声を掛けてもらったり、心配してもらうのはうれしい。でも相手の考えと違えば、従えと圧迫されたり、のけものにされたりというのはうれしくない。

そもそも人間は一人一人違う考えを持っているものです。
ただし社会生活を送る上で全員が違う考えでは、意思の疎通が図れないので、共通のルールを作ります。
そのルールは、互いを理解し合うために必要なのですが、いつのまにか力の強い人を理解するために必要とされるようになっている。
そうするとルールはボスによって決められ、例外が認められない窮屈な社会が出来上がります。
当時の若者はそれを嫌って窮屈な社会から出て行きました。

本当は皆が窮屈だと感じたときに、窮屈の理由をさぐらなければならなかったのです。
ルールの領域と個人の裁量の領域を分ける必要性を立ち止まって考える必要があったのです。
もしかしたら、それを試みた人がいるかもしれません。
でもその小さな声は、ボスによって無かったことにされ、絶望したその人は村八分となって出て行った・・・。

今の孤独は言ってみれば、過去のしがらみが生んだ結果なのです。

日本人は無宗教の人が多い。
ということは、人間を超えた存在と話をする機会がないということです。
神と話をするときに初めて、自分の小さな視点に気がつき、本当の解に目が開くのです。
社会形成を如何にすべきかを問うとき、今の問題点を浮き彫りにするには、多くの思考と多方面の視点の導入が必要となります。
諸外国ではその手助けを神がしています。

日本に引きこもりが多いのは、神がいないという社会背景も多いにあるのでしょう。
優秀なNPOなどが、しがらみと孤独の互いの問題点に気付き、それを解決する方向で動き始めています。
その運動がもっと大きくなって、今の孤独とは違う心地よい孤独と繋がりが生まれたとき、人々には本当に求めた社会が迎えてくれるのだとおもいます。