「親」というのは親しくない相手かもしれない

今まで「親」という存在を、親しいとか親しくないとか思ったことはありますか?

親は自分を産み・育てた存在だから、そういう枠組みの外にあると思っている人がほとんどだと思います。そこをあえて親とはどういう存在か、どれくらい心理的な距離があるのか、考えてみようと思います。

f:id:idea-for-life:20211203170045j:plain

親とのつながりはまやかし?

「親」といってまず思い浮かべるのは、面倒を見てくれた人。オムツを替え、ご飯をくれ、身なりを整えてもらったり、入学などの手続きをしてもらったり、たまにどこかに連れて行ってくれたり。どこの親も、こんな感じでしょう。

世話をされることを通じて、我々は親に構われていると感じます。だから、親を親しくない存在とは思いません。だれかと比べるまでもなく、近しい・親しい存在だと信じています。

ただ、大人になって自分の面倒を見られるようになると、「面倒をみてくれる存在」、すなわち「親」は不要になり、双方をつないでいた世話をする・されるの関係性は切れます。代わりにクローズアップされてくるのが、心理的つながり。

ここで気づくのです。親と心でつながったことってあったっけ?

いい子症候群

脳裏に焼き付くのは、ダメ出しされ続けた日々、どんなに困ったと訴えても「大したことない」とあしらわれた悲しさ、ことあるごとに「私(親)の方が我慢してるの!大変なの!」という心理的圧迫。

一度足りとも、「どうしたの?話したくなったらいつでも聞くからね」といった優しさをかけれることなく通り過ぎた胸寂しい子ども時代。

孤独だったあの頃。

家庭の中に心を許せる相手はおらず、文句をつけられないように、機嫌を損ねることのないように、緊張しながらいい子を演じる過去の自分は、なんとも健気で、可哀想だったことでしょう。

本来家庭こそが、心の安全基地になるべきです。学校のような外の世界は、ともすれば、張りあったり、蹴落としたり蹴落とされたり、エゴが蔓延している場所。だからこそ、安らげる場である家庭は、子どもにとって欠かすことの出来ません。なのに、それがない。

友達や恋人が出来ない訳

心の交流、安らぎ感じることなく育つと、人と深くつながることが出来なくなります。

友達に囲まれていても、どこか安心できないし、自分は重要視されてないんだな、と不安になる。いい子を演ずるあまり、外の世界でもいい子を装ってしまって、本音が隠れ、その人らしさが失われてしまっています。それにより、量産型の人間と化し、「置き換えの聞くだれか」に成り下がって、誰からも大切にされなくなくなっていくのです。

悲しいですよね。こうやってちゃーんと生きてるのに、まるで工業製品の様に替えがきく存在として見られるの。

それがハッキリ出るのが、恋愛・結婚です。
誰かのオンリーワンになりたくても、深くつながることのできないハンディが立ちはだかり、2番手・3番手に置かれる。人とつながる方法を知らないと、友情だろうが愛情だろうが、袖にされてしまいます。

異性ウケをする方法は本に書いてあっても、なぜ異性ウケがそんなに大事なのかは載っていません。大切なのは、異性ウケ→すなわち異性の立場になって、見て感じて考えてみるという、心でつながろうとする姿勢です。

その姿勢はただ話を聞くのと違って、経験がモノをいいます。経験がないと、心でつながることを迎合とはき違え、最終的に苦しくなって、フェードアウトを繰り返します。いつまでたっても孤独の淵から抜け出すことはありません。

親しさの正体を知ることから

なので、親を「面倒を見てくれる存在」という視点から切り離し、親しみと感じる相手か、そうではないかを整理することは、生きていく上で重要です。

親しさがなかった境遇に気づくことができれば、どうやったら親しさが身につくのか?そもそも親しさとは何なのか?どんな心構えがあれば、親しさが身につくのか?など、今まで考えたことのない問いが思い浮かびます。

ドラマでも小説でも、親しみを感じる人物に出逢ったら、どうして親しみを感じたのか考えてみましょう。親しみの正体が分かったとき、灰色かかった人生にうっすらと色がつき始めることでしょう。