日本語は便利だけど、本質を隠してしまう

「××君ってやさしすぎるんだよねー」という表現、「やさしい」というプラスイメージの強い形容詞を持ってくることで、「すぎる」というマイナスイメージをごまかしている。

言葉そのものの意味に囚われすぎると、なかなか本質が見えてこない。
だって、その言葉自体が、(傷つけたくない、ひどい人と思われたくない)フィルターを
かけられた結果なのだから、フィルターを取り除かないと。

発言者の意図は「やさしい」ではなく、「すぎる」の方だ。

発言者の期待に対して、ある状態が「すぎる」。
ある状態のヒントは「やさしい」。

やさしいを悪い意味で使うときは、優柔不断、自分の意見がない、判断力がない
押しが足りない などが考えられる。
だから、やさしすぎるを別の言葉に置き換えると、極端に自分がないという表現に
なるだろう。
そう、本質は「××君って透明人間だよねー」と言われているのだ。

我々は社会生活を円滑に進めるために、表現をまるめるとか柔らかくするという技を
獲得する。
太っている人には「デブ!」とは言わずに、「ふくよかですね」と言いましょう。
不美人に「ブス!」というよりも、「個性的な顔立ち」と言いましょう。

まあ、その配慮はあったほうがいいとは思うけど、過度に使用すると、なにが本質
なのか、ぼやけてくる。
ぼやけてしまうと、責任の所在や、問題が起こったキッカケの把握があいまいになり、
また同じ過ちを繰り返す。

だから私は、相手が精神的に病むほど傷つくこと以外は、ハッキリと意見を言うこと
が大切だと思う。
たとえ、まわりからキツイ人と評価されようとも、問題をぼやかして、問題を把握する
キッカケを相手から奪い、解決する手段を身につけるチャンスを奪うことの方が
ずっと不誠実だと考えるから。


愛とは相手が相手らしくいることを尊重すること。
自分にも愛を、相手にも愛を同じように渡すならば、自分が相手に持った違和感を
素直に表現することも愛だし、相手にその違和感を伝えることも愛、そして相手が
違和感に対処するかどうかを任せるのも愛だ。

愛と対照的な情(あいまい)は一番残酷だ。
自分は相手に耳の痛いことを言わなくて済む。嫌われなくて済む。
でも相手は、問題に気がつかないでいるともっと深刻な事態になる。
相手が深刻な事態になっても、知らんぷりする。

ひどいのは愛と情のどちらですか?
情(あいまい)を優先して、煙に巻いてしまう方じゃないですか?


日本語は、使い方も解釈も様々なバリエーションを持ち、本質をあいまいにする
ことがいとも簡単にできてしまう言語だ。
おそらくこのように意見をあいまいにすることが可能な言語は、世界広しといえども
日本だけではないだろうか?

わびやさびのような、美術・芸術界ならばともかく、言葉の世界においては、
相手に何かを伝えることが最重要視されているのだから、ごまかしをやめ
本質を突いた言葉を選びたい。

問題を指摘することは、勇気を必要とする。
それでも、みんながやっているように情に流されて、あいまいを選択していたのでは
いつまでたってもアイデンティティをものすることはできない。
自分を愛することも人を愛することも立派な行為です。
自信を持って、愛のある言葉の選択をして欲しいと思います。