ファッションから対話を考える

土曜日に、震災以来久しぶりの東京巡りをした。
銀座をぶらっとして、気に入った店に入り、ドーンと(2個だけ)服を購入した。

 とくに人前に出ることがないため、服にはトント興味がなくなったけれど、それでも

なにかしらんのインスピレーションが得られるフォルムをした洋服を見ることは
楽しい。
着てみて、自分がステキに見えるともっと楽しい。

つまり、ファッションも対話の一つなんじゃないかと思うのです。
誰かと話して、「あーわかりあえたな」とか「なるほど、そんな考えがあったな」
と感じる瞬間と、ある服を試着して「あー自分ってこんな風に見せられるんだ!」
「こんな考え方の服があるんだ」と感じる瞬間の、心の有り様ってソックリな
気がします。

日常で、対話が不足していることを、ほとんどの人は、顕在意識・潜在意識
のどちらかで認識しています。
顕在意識の人は、他者の発する言葉のくだらなさに愕然とし、潜在意識の人
は、友達や恋人がいないくて、もしくは通じ合えなくて「寂しい」と感じます。

対話とは、文字の如く「話」をしなければ、成り立たないと思っている。
けど、私は違うと思います。
対話は全ての感覚器を使って行えます。
言葉を交わさずとも、目があっただけで、なにか心に動きが生じる。
寂しいときに、信頼している人に頭をなでてもらうだけで、ほっとする。
これも対話の一種でしょう。

ここからは仮説ですが
若い頃に見た目に拘るのは、言葉の未熟さを補うために、見た目で相手と対話
しようと無意識にしているからではないでしょうか。
若ければ若いほど、人間として未完成であり、不安である。
従って、不安さを払拭するために、比較的分かりやすい見た目を磨く。
ダイエットに励み、髪の毛を整髪料で整え、最先端のファッションを身にまとう。
そうやって、自分が相手に認められるという感覚を手に入れようともがいている
気がします。

大人になれば、それなりに言葉を操れるようになるか、もしくは他者に賞賛され
る現実など無いと見切って、それほど外部に依存しなくなる。
そうなると、ファッションの存在意義が、他者基準ではなく自分基準になる。
だから生活に見た目を要求されない職業の人は、すべからく廃れたファッション
で満足する。(←私デス)

今回はファッションに焦点を当てて、自分の心の中を点検し、思考を拡げて
考えてみましたが、これはどんな分野でも応用可能と思います。
売れる絵、音楽、雑貨は、買い手になんらかの心理的影響力があるからこそ
買うという行為を誘発できるのです。
その心理的影響とは、まさに対話。

売れっ子は、コンセプトや目指す物がハッキリとしていて、共感性に富むのは
対話が深く関わっているからでしょう。
結局、時代を生き抜く人になりたければ、自分と他者への観察眼に優れることが
必要と感じます。