友達からメールが来ない に執着する

家族がいるから友人なんていらない・・・と言いつつ携帯にメールが来ないことを
気にしてしまう。自分からメールを送ればいいって思うけど、相手からメールが来ない
ってことは迷惑なのかな?と思って躊躇してしまう

といった堂々巡り経験したこと在りませんか?

私は1年ほど前に、そういった経験をしました。

そのときの自分は、”これが自分だ”という感覚が無くて、友人からメールをもらうことで
辛うじて認められていると感じていました。

人間は社会性のある生き物ですから、自分の外の世界に承認してもらうことでつながり
や安心感を得るといった側面があります。
ですからメールが来ないことに不安を持つのは当然です。
ここで問題なのは、不安が膨らんで大きくなりすぎていること。

不安が増大すると、全てがダメなように錯覚します。
そんなダメな自分が辛くて、どうにか抜けたくて他人に承認されることを求めますが
如何せん他人は他人のために生きているので、そうそう自分に都合良く振る舞っては
くれません。
もちろん不安を抱えている自分は他人に役立つなど到底できず、よって
”してくれたからする”といった構図は成り立たない。
ひたすら他人の思いやりを待つという不毛な体制に入るのです。

そしてあまりに不安が巨大化すると、キレてしまい「なんでメールをくれないの[E:annoy]」
と相手に迫ってしまいます。
その時点で確実に相手は疎遠にすることを心に決めるでしょう。

さて、社会性がありつつもメールの来ない人間は如何に変わっていけばいいので
しょう?
一つは社会性そのものを諦め、お一人様道を突っ走る。
もう一つはメールをたくさんもらえる人間をつぶさに観察していいところを盗む。

昨今は無理して人に合わせることないよ風潮が広まり、お一人様を楽しむための術
が広く知れ渡るようになりました。
ときにわずらわしい人間関係を絶ち、自分の中で生きるというのもまた一つ
の価値観だと思います。
<最終的に頼れるのは自分>という強い意志は、日本人にありがちな粘着質を排し
大人としてその場に立つという素晴らしい姿勢を育てる重要な要素だと思います。

もう一つのメールのたくさんもらえる人のいいところを盗む方法を実行すると、自分に
ないものが見え、獲得すべき能力を認識することできます。
獲得後は既存の性質との相乗効果で、本当の自分らしさを手にすることが出来ます。

一人で生きるも人に囲まれて生きるも、結局の所納得できる自分になるという点で
同じです。
自分像をはっきり理解せず、なんとなく平均的な人間になりたいと思うから、その
ズレに違和感を覚え、修正しようとするのです。

頭の中の○○だから寂しいという概念を一度疑ってみませんか?
あなたの思う平均な人間像はいくらでも引き上げることが出来ます。
無理に引き上げて達しないと落ち込むぐらいなら、平均な人間像を下げてみればいい。
家族と仲良くいるのだから寂しい?とはならないのです。
○○があるから幸せ♪と言えるようになれば、自然と自分に納得が降りてきます。
そして不思議なことに、肯定的な人には人が寄ってくるのです。
足るを知り、感謝のできる人間は、誰が見ても魅力的なのです。