相手の役に立とうと画策しても友達には昇進できない

自分に自信のない人が、友達という飾りを手に入れようとしてよくやる技が「相手の役に立つ」である。

車を出し、素敵なお土産を贈り、ご飯をごちそうする、子供を預かる→なーんてことをする。

確かにそれは役には立つのだが、「あっ、助かったわ」「ありがとうね」という感覚以上を相手にもたらすことはない。
あくまでもその場で感謝の気持ちは終わりである。

ところが役に立とうと画策した人の目的は「自分の自信を確立するための友達づくり」であったので、その場の感謝では足りないのである。
”こんどは同じ事を私にして信頼の証を頂戴”であったり、”私のことを一番の親友と思って頂戴”なのだ。
従って、この二人のギャップは埋められることがなく、役に立とうと画策した側はさらなる役立ち作戦を敢行し、頂戴の期待値をグングン上げていく。
されども願いはついに叶うことなく、”私って生きている意味がない”と悲観するのだ。

ここで役立ち画策をした人の大いなる誤算は、「役立てば信頼される」という前提である。
人は便利な物を使いがちだが、便利な物に信頼や興味は持たない。
それよりも我が身を承認してくれる相手の言葉や行動を信頼する。

自分の望むタイミングで、望む言葉・期待以上の言葉を掛けられたとき、人はこれ以上ないほどの安堵感や幸福感に包まれる。
そして言葉を発した人に強い好感を持つ。
好感は回を重ねる毎に信頼へと質を変え、いつしか相手はなくてはならない存在に昇格する。

だから人と信頼を築きたければ、役に立つことよりも相手の心からのニーズを掴むことである。
相手が今この言葉をチョイスする裏側にどんな心理が働いているのか、何が不満なのかをとことん考えられる観察力のある自分になることだ。

自信がないから友達を手に入れようとするオドオドした心理では、到底相手の心理を読むことが出来ない。意識は自分へ自分へと向いている。
どうあがいたって、友達などできない。

つまり逆説的だが、友達を作ろうと思うのなら、友達を作ろうという意識を捨てることだ。
友達などいなくとも平気だという気持ちがあれば、フラットな気持ちで相手を観ることができる。
邪念がないから相手の素直なニーズが透けてみえる。
そこにすっと手を差し伸べれば、自然と相手からの信頼は寄ってくる。

友達に囲まれている人を観察すると、まったく友達というものに拘っていないことがわかる。
偶然友達がいただけのことで、その人には微塵も友達を作ろうとか必要だという意識がない。
そのあっけらかんとした態度が周囲の気持ちを軽くし、気軽につきあえる関係を築き上げる。

ママ友ができない、心からの友達づきあいが出来ないと悩んでいる人は、貞子並に友達への執念が渦巻いている。
そんな人怖くて近寄れません。

友達が欲しかったら、友達がいらないと思おう。
これが友達作りの秘訣である。