芸能人訃報ニュースの傍で、アイドル劣化の話という乖離

やしきたかじんさんがお亡くなりになった。
生前、多くの人に影響を与えただけあって著名人が涙を流す場面が多くあったらしい。
その一方、ネットニュースには「篠田麻里子劣化か?」とか「犯人逃走」とか、沈痛さとは真逆の話が表示されており、「嗚呼、これだけ人によって今日という日の捉え方は違うものなんだなー」と思った次第です。(以前も、同じようなネタ書いたことあります。)

要するにこれだけ人というのは、一人一人立場が違い、直面している問題が違う。

けれどある一定の領域内の人は、沈痛な場面に沿った対応を、また別の領域にいる人は、陽気な場面に沿った対応を求められる。いわゆる空気読むってやつ。で、いっぱい空気がある場合空気の境目はどこなんだろ?

昔話にコウモリは嫌われるだったけ?あったような記憶がある。
あっちで、こんなことをいい、こっちでこんな顔をする。その七変化ぶりに”どっちつかずなヤツだ!”ってレッテルがついて、嫌われるっていぅ。
でーもー、空気読んだらコウモリにならねぇか?
いっそ、空気を読まずに自分はこう思うから筋通しまっせ的な方がいいのかな?

いっぱしの人間に求められる他者を受け入れる塩梅と、自分を押し通す度合いのバランスってとても難しい。
他者ばっかみてればコウモリ、自分ばっか押し通せば自己中。
おそらくそのような低次元な視点に解は存在しない。

どんなに足掻いても我々は人と人の間に居る。
どこまで自分を保ち、どこまで他人を受け入れるか、これは大の大人でも難しいテーマ。
そのテーマから目をそらすことのできるインフラストラクチャー(ネット環境)が充実している今、さらに自分という存在を考える機会は奪われているように思う。

どぅ考えても他人とは全く一緒の時間も感性も共有できない現実を前に、絶対的感情を押しつけることの出来ない他者に対する絶望感のようなものを感じる。
きっとこれが孤独の正体だな。