キラキラした人をなんとなく避けちゃう

人生で出会った中に、心の美しい人、素直な人がいた。
私自身出会った瞬間に「この人が好き」と心から思った。
ところが、何度か会ううちに、その人の前に立つことが億劫に思えて、次第に会わなくなり、フェードアウト。
もったいないことをしたと、後悔している。

でも、今思い返せば、苦しかったのかも知れない。

相手のまばゆいばかりの人生、愛されてきた生い立ちに、我が身の悔しさを再確認することが。
残念ながら私という未熟な人間は、どこかで他者と自分を切り離すことが出来ず、無意識に「比較」という愚行をしていたのだ。
だから、素晴らしい人間の前に居続けることができなかった。

-類は友を呼ぶ-

というのはこのような私の心理を表しているのだろうか。
もし同じくらい親に悩み苦しんできた相手ならば、その苦しみを共有し、「人生とはこのように辛いものだ」と納得していたに違いない。
ところが幸せ格差がある相手を前にすると、自分の惨めさをひしひしと感じざるを得なくなり、苦しくなる。従って一緒に居られなくなる。

思い返せば、「友人」と称して付き合ってきた人々は、無関心・過干渉・精神病的な親を持った人ばかりであった。
そういう友人だったからこそ、お互い心に傷があることを前提にした価値観が一致したのだと思う。
ところが、得てして心に傷のある人間は健全な精神成長を遂げられず、特にお互いの境遇が違ってくればくるほど、他者を慮ることができない欠点が如実となり、疎遠になりがち。
よって、生涯の友としての関係を継続するのは難しい。

結局のところ、人付き合いを長く続けたいのならば、心の傷を癒し、我を成熟させ、美しい心の持ち主と付き合うことだ。
適度な距離を保ちながらも、たまに起きる共感を支えとして互いを思いやっていけることが一番なのだと思う。

友達がいるいないは、さほど重要なことではない。
問題は自分が傷を治せているかどうか。
治せていたら、心美しい人との出会いを大切に育んでいける。
人は欲しいと思っているときには、与えられず、我を見直し生き直したときにこそ、欲しいと思ってたものは自然と与えられるのである。