「貴方は悪くない」のである

ゴールデンウィークに2本映画を見た。
一つは、グッドウィルハンティング、もう一つはロクヨン。
この二つに共通する話題は、自分の殻に閉じこもった人々。

グッドウィルハンティングは、主人公のウィル(マット・デーモン)が養父から虐待を受け、人間不信に陥っている。

ロクヨンは、科捜研の日吉(窪田正孝)がある事件でミスをし、そのミスをリーダーから叱責され、14年間自宅に引きこもっている。

どちらも、自分のせいだ、自分が悪いからだと、必要以上に自分を責め、周囲と距離を保っている。

誰でも失敗するし、思い通りにならないことがある。
「誰でも」そうなのに、なぜその人だけが、必要以上に罪を背負うのか。
そこが問題だ。

我々は他者に接触する前に、一人の人間、一人の個である。
しかし、叱責、暴力を前に、一人の人間であることを保つのは、容易ではない。
負けそうになる、いや、負けてしまえば楽なのである。
自分が悪ぅございましたと思えば、それで事が済む。

だからそうする。
自分で自分を縛る。
縛った縄は、いつほどかれるのだろう?だれにほどかれるのだろう?
縛った本人でさえ、そのことには意識が向かない。

ゆえに他者が縄を解く言葉「君は悪くない」を唱えるのである。

いい、とか、わるい、とか、そんなの問題じゃない。
そんなものは、相対的でしかなくて、いつでもいい、は、わるい、に転び、わるい、は、いい に転ぶ。
井戸を掘って水が出た!と、いいことをしたした!と喜んでも、その水に水銀が含まれていると分かったら?→危ないじゃない、と、わるいことに転ずるのである。

問題を含んでいそうな事態は、反省をして繰り返さないこと。反省の中で関係者の気持ちを慮ること。それで十分なのである。
懺悔と後悔と、反省を混同してはならない。
反省はし続けて意味のあるものだが、懺悔や後悔は負の感情に縛られるだけで、なにも発展しないのだから。