価値観の似た人を探すのはいいが、価値観の合致する人を探すのはやめとけ

「どんな人と結婚したいですか?」
この問いに「自分と同じ価値観を持つ人」「価値観の合う人」という答えが返ってきたときは、気をつけた方がいい。

理由は、相手に自分コピーを求めているから。

いうまでもなく、自分とソックリの価値観を持つ相手はいない。

貴方が怒っている瞬間、相手は穏やかに過ごしているし、貴方が悲しみの底にいる時、相手は笑い転げているかもしれない。
感情を完全に共有し、いつも同じ気持ちでいられるなんてことは、ほぼない。

かといって、誰でもいいかと言われると、生活様式の些細なことから合わせていくのは骨が折れるし、なんといってもお金に関しては生活そのものが掛かっているため、高収入高支出型なのか、低収入低支出型なのかなのかくらいは、一致している必要はあると思う。

では、どんな人が自分に相応しいかといえば、生活のベースとなる価値観は似ていて、それ以外は相手と話をしながら決めていける人である。
日常にあふれる問題は、簡単に解の出ることが少ない。

子供を公立にいかせるか、私立にいかせるかに、解なんてないのだから。
夫がお金も掛かるし公立でいい、といい、妻はいい教育を受けさせたいから私立、という。
どちらの選択がが子供に幸せなのかは、両方通ってみないとわからない。
現実的に無理である。
そこで互いになぜその選択を推すのかを話合い、何を決定の基準とするのかを思考する。場合によって子供にも議論に参加させる。
こうやってみんなで考えた結論こそが、子供の幸せに繋がる。

つまり話合いのできるベースとなる「一緒に話をして決めていこう」という信念さえあれば、元々持ち合わせている価値観がバラバラでも何も問題ない。
さらに深く考えるならば、「一緒に話をして決めていこう」と思えるほど相手を信頼している、強いては「人間はわかり合える」という信念を持ち合わせていれば、どんな困難も乗り越えていける。

でも大方の人は話さずじまいだ。
剛速球で結論を出すことを望む。
結論の裏に、誰かの犠牲があったとしても、さして気に留めはしない。
いわんや、その瞬間は気にしたとしても、のど元過ぎればなんとやら、で都合良く忘れ去る。特に犠牲を払わせた側が。

では犠牲を払った側はどうだろう?
簡単に水に流せるか?否、無理だ。
いつか仕返しを、恨みを晴らしてやろうと相手を憎々しい目でにらみ続ける。

納得のいかない押さえつけは、とてつもない憎悪を生む。
少なからず未来に仕返しをされることになるだろう。
そんな未来だれも望んじゃいない。
最初から憎悪を生まない環境、すなわち話合って決めるの環境を作れる相手を探そう。
価値観の完全一致を目指すことは、薄氷の上を歩く危険を孕んだ危険な思想であることを、覚えていて欲しい。

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