スルーされるすいませんと絶賛されるすいません

「すいません」
使い方の違いによって、あなたを大したことのないやつから、絶賛に値するやつに格上げすることなんてあるのだろうか?
そこを考えてみよう。

「すいません」でスルーされること、絶賛されること

日本人が口くせのように言う「すいません」。
ほとんどの場合、自分の意思を通したいときに枕詞として使ったり、軽い謝罪の意味に使う。
「すいません。この商品在庫ありますか?」「遅れてしまって、すいません」

当たり前のように聞き慣れた「すいません」。
特別感動することもなく、日常の一片としてスルーされる。

ところが先日、アーティストの星野源さんが紅白歌合戦のリハーサルで、機材の不調が原因で音合わせを何度も行ったことに対して、終わり際に「本当に何度も何度もすいません。ありがとうございました。」と頭を下げたことに絶賛の声が上がっていたと報じられた。
いまをときめく星野源だから、ということではなく、この「すいません」は特別な使い方をされたから、絶賛されたのだ。

このように、おなじ言葉であっても、評価というのはだいぶ分かれる。

同じ言葉なのに、一体何が違うのか?

では、何が違ったのか。

一言で言うと、見ている範囲である。
聞き慣れた「すいません」は相手のことはみていない。
むしろ思うがままに事を運ぶために、「すいません」というツールを器用に使いこなしている。
「すいません」を使うとき、見ているのは自身。

対して星野さんが使った「すいません」は、リハーサルを聞いていた人々のことを見た上での言葉。
たとえ音響のミスセッティングであったとして、それは見学者には関係ない。目の前の自分が何度も音を止め、ノッていた客の勢いを止めてしまったことに対する申し訳なさからでた「すいません」。音合わせになんども付き合ってもらったスタッフへの思いやり。
自分のことはさておき、周りのことみている。

人が心を動かされる時とは?

我々は何かに向き合うとき、”だいたいこういうもんだよね”という想定をしている。

その想定より出来が悪いと、イマイチという評定を下し、想定どおりだと、普通と思う。
想定以上の場合のみ、絶賛する。

今回の場合、星野さんは機材の調子が悪かったのだから、音合わせをし直したのは謝ることじゃない、というのが想定に沿った行動。ところがその想定を超えて、周りを見て、周りの気持ちを慮った行動に、想定以上じゃないか!と人々は感動し、絶賛をしたのだった。

つまり絶賛されるには、本来見るべきと想定されている範囲を超えて、より多くの人の心を見ること。
その心を見ることが出来た時、自然と周りの人の心は動かされる。