焦りから解放された人生を歩むには

レジにたくさんの人が並んでいたとき、あっちの列とこっちの列、どっちが早く会計できるか?考える。人数を数えてみたり、カゴの中の量から推し量ってみたり。そして当たりを付けて、えいやっ!と選ぶ。

3人、4人、と会計が済み、後2人となったとき、隣の列を見たら、同時期に並んだ人が会計を済ませている。
ガーン!遅れた…。

と思ったことはないだろうか?

はたまた、片側2車線の道路を「右レーンなら詰まりもなく余裕でしょ」と走行していたら、前の車が右へウインカーを出して停止した。
えーーー!そこで曲がる???
続けて停まった私の左をビュンビュンと車が走り抜ける。

なんだかはがゆい。
先に進みたい私は左レーンの隙間を見つけて車線変更を試みるが、そういうときに限って、車と車の間が詰まっていて出られず。

なんか私、運転へたっぽいって焦る。

レッテルに惑わされる私

こういう世間一般から見て不利な立場に置かれたとき、「君はどんくさいダメ人間」ってレッテルを貼られた気になる。
一刻も早くそれを剥がしたくて、焦って額に汗をかく。

けれども考えてみたら不思議だ。

私の横には誰もいないし、もちろんレッテルを貼る人間もいない。
実在しない相手に「レッテルを貼られるかも」と焦るなんて、滑稽だ。

それでも人は、一度浮かんだ考えには逆らえない。
だとしたら、浮かぶ前になんとかしなければ。

相手へ思うことは自分へ跳ね返る

あなたはどんくさい人を見てなんと思っているだろう。

「あの人、バカだな~」
「なんで、もっといい方法に気づかないんだろう」
「やっぱ、出来の悪いやつは、どこまでいってもヘマするんだよな」

と、批判的に思っていないだろうか。

いつもどんくさく見える相手を批判していると、イザ自分がどんくさい立場に立たされたとき、自分が批判したみたいに周りから批判を受けるんじゃないか、と思ってしまう。
きつく批判していればしているほど、その思いは強くなる。
もしこれが、「どんくささもいいんじゃない」と思っていると、自分がその立場になったって、「そういうのもあり」と思える。

批判は親子で受け継がれる

そのどちらに傾くかは、育てられ方次第。

「どんくさいことはダメ」と叱られ続けていれば、他人のそれも許せないし、自分のそれも許せない。だから批判的にならざるを得ない。
それが、「どんさくても最終的になんとかなればいいじゃん」と言われていれば、自分も相手も温かい目で見守ることができる。

結局育てられ方次第で、批判的にも温和的にもなる。

あなたの親はあなたをどう育ててきただろう。
「みっともない」や「かっこわるい」といった言葉が思い浮かぶのなら、あなたの焦りは親の批判が原因と考えられる。

器量が狭いからじゃない。あなたの親の考えが、そのままあなたに受け継がれただけ。

焦りから解放されるために

でも、そうやって焦ってばかりの人生って苦しい。

「恥ずかしいことなんかない。こういうときもあるさ」と肩をポンと叩かれる人生を歩みたい。

だとしたら、「どんくさい自分を許す」ことだ。
出来なくて、「ダメな子!」としかり飛ばしたくなる自分に、「人間は出来ないことだってあるのよ。でもだからって全部できないわけじゃない。ちょっとヒントをあげれば、できるようになるのよ」と優しく声をかけてみる。

そういう気の抜けた「いいんじゃない」感って、伸び伸びと生きる為に必要なことだと思う。

私は私にとても批判的で、だからいつも不利な立場の時焦ってばかりで対処方法を誤る。
ピンチのときこそ、強くなりたい。
そう願っているのであれば、なおさら、「どんくさくてもいいじゃない」と自分にも相手にも言うよう心がけたい。