親から批判され続けた子供が立ち直るには?

外からの刺激が怖い、内にこもってしまいたいという感覚に襲われること、ありませんか?

周りは敵だらけで、なにか言おうものなら、即座に否定されると思い込んでしまうのです。そういう歪んだ渦中にあるとき、自分を救うものってなんなんだろうと思います。そして、なんでこうなっちゃたの?とも。

おぼろげにあるのは、遠き日の母に浴びせられたダメ出し。「なんで出来ないの?」「全然ダメじゃない」。辛かったその記憶をどうやって処理したらいいんでしょう。

何が足りないのかさえ分からなかった時代

ダメ出しは、嫌です。けれども、それ以外知らないので、理想の育てられ方は?と尋ねられたら、ダメ出しと真逆の褒められて育つ、を想像します。

そして居心地の悪さを感じます。

「かわいいねぇ」「いい子だねぇ」の言葉を想像する度、反吐が出る。なんか、こう無理矢理感が、あるんです。現に見た目がかわいいわけでも、いい子でいられるほど素直な性格でもないんですから。

ダメ出しも嫌、かといって「褒め」も白々しい。どっちにも行きたくない自分に、「お前どうしたいんだ?」って感じです。

素直な言葉の登場

そんな中、自分のことじゃないけど、すっと入ってくる言葉に出会いました。

痴漢にあった女の子に男性の警察官が「そんな露出の多い格好しているから、痴漢に襲われるんだ」と言ってきたのを目撃した女性警察官が「彼氏にかわいい服見せたかっただけなんだよね」とフォローしたエピソードを聞いたとき。

私がその女の子だったら、女性警察官のフォローがとても支えになるなと。

女性警察官は、けして女の子を褒めたわけではなく、彼女の思いを代弁しました。その、自分じゃないだれかに自分のことを理解される体験を以て、「自分の感情は正しかったんだ!」と思える様が、心を穏やかにしてくれました。

「感情の正当化」とでも名付けましょうか。自分が自分であっていい、という援助の手が差し伸べられた気がしたのです。

結局私に入ってくるのは、「感情を正当化」してくれる言葉でした。

「感情の正当化」は思い上がりを生まない

こう話すと、なんでもかんでも正当化したら、その子は思いあがらないか、と心配されます。

では、なぜ思いあがるのか。

感謝の気持ちがないからです。人は本当に望んでいるものを渡されたとき、心の奥底から感謝の気持ちが湧き起こります。肩の力が抜けます。望みが叶った段階で、もう十分と思えるのです。

見当違いのものを渡されると、がっかり感とまぁそれでもいいかという気持ちを抱きます。けれども欲しいものが揃ったわけではないので、肩に力ははいったまま。これでも許してやるよ、といった上から目線に変わってしまいます。

正当化したものが、本人の望みであれば思いあがらないし、望みでなければ思いあがりを生む。そして「褒め」は、おそらく望むものじゃないです。人々が望むのは、なにを差し置いても「分かってもらうこと」だから。

「褒め」という安易な手段に頼って、見当違いの正当化をするから、思いあがりが生まれてしまうのでしょう。

親が間違ってるのではない

親から批判された子は、たったの一度も「感情を正当化」されたことがありません。だから自信をつけようと思ったら、最初は自分の長所を引き出して、「私の○○は素晴らしい」といったことを拠り所にしようとします。

けれどもなんか違う。

なので、まず自分の感情はどんなもんかを考えます。たとえば、算数のテストの三問目が全然解けなかったとして、解きたいけど解けないといった焦りを後で思い出します。そのときの思いに手を伸ばして

「三問目、解こうと必死に頑張ったのに、歯がたたなくて悔しかったんだね」と。

すると、「解けた。解けない」ではなく、「悔しい」と思えた自分が受け入れられた気がして、「どうしたらよかったかを考えよう」に意識が切り替わります。

ちゃんと感情を分かってあげられれば、人は自然と立ち上がれます。親は「分かってあげる」ことがお仕事で、口すっぱく注意しなくてもいいのです。けれども親もそんな接し方されたことないから、ダメ出しをして、解決へと導いている気になっているのです。

憎いからダメ出ししたのじゃない。無知がダメ出しをさせていたのです。

感情の浄化こそが批判された心を救う

結局、「感情の正当化」を通じてやっているのは、感情の浄化(カタルシス)です。自然発生した感情が、その存在を認められ、「もう十分役割は果たしたからね」と優しく声をかけられることで、気持ちを収め天に戻っていく。

発生、収束、昇天までの流れがスムースであるほど、私達は自分が生きていることを肯定できます。感情こそが人の核であり、核をちゃんと成仏させられること、イコール現世に居続けることを許された気になるからです。

行き所を失った感情は溜まり、腐り、ガスを発生させ、バンッと爆発します。それが暴力だったり、自分への攻撃だったり、はたまた他人の命を奪うほどの凶行だったり。

「分かってくれない」というのは、我々が思うよりもずっと強大なエネルギーの塊です。派手に見える「暴力」についつい目を奪われがちですが、拳を収めさせることより、拳を出したくなった原因を探る方が、優先なのです。

もし私のように、外からの刺激が怖いと思っているのならば、そっと「今、怖くて仕方ないんだね」と声を掛けてあげてください。そして「怖くて仕方ない理由、思い当たることがあれば知らせてくれない?」と言ってみるのです。

その瞬間、話したくなるとは限りません。ただ、独りぽっち感は薄れると思います。今じゃないけど、気が向いたら話してみてもいいかな、くらいには思えるんじゃないでしょうか。

親から批判され続けた子ほど、めちゃくちゃ我慢し、結果を残そうともがいて、頑張って生きてきたと子です。その我慢を正当化するのではなく、我慢しようともがいてきた心を「頑張ったんだよね、辛かったね」といってあげることが、感情の浄化であり、自分を救う言葉となりうるのです。