餓鬼

仏教用語で餓鬼(ガキ)という言葉がある。
餓鬼とは「生前に嫉妬深かったり物惜しみやむさぼる行為をした人の赴(おもむ)く所
である」らしい。
私はこの言葉を高校生の時に習った。

日々孤立と戦い苦しむ自分を見返したとき、まさにこの餓鬼状態に陥っていること

に気が付いた。
親は頼れないどころかむしりとられる、配偶者は私を無視する。
小さいころから、根無し草である自分が根をはれる場所が欲しいとばかり思ってきた。
つまり私は心理的に受け入れられる場所・信頼できる場所を求めてきたのだ。

私の親は子から搾取することばかりを考えてきた。
どうやったら私(親)が、心理的に楽になれるか・頼れるかを追い求め、子を脅迫して
いた。どうやら親は配偶者や親の親に求められなかった愛情を子からなら受け取れる
と信じていたようだ。
ということで、私は小さいときから愛情をむしりとられることはあっても、与えられる
ことはないまま成長した。

大人になって、そこそこ知人・友人はできたけど、そこまで信頼できる相手では
なかった。恋人と呼べる人間もできたけど、その人もまた信頼に足りる相手
ではなかった。
私は信頼を体感したことがないので、相手が信頼にたる人物かどうか見分けられない
のだ。
さらに私は心理的に餓鬼の状態だ。見せかけの信頼にだまされやすい。
Sさんのたった一回の行動で、私はこの人を信頼できると勘違いした。

こうやって間違えた路を歩いた結果が今だ。
誰も信頼できない。
この状況が苦しい。だったらここから脱却するにはどうすればいい?
そこで餓鬼に足りないものは何か考えることにした。

餓鬼には愛が足りない。もらうべき愛を受けることなく成長したから。
しかしどんなに嘆いたところで他者から愛をもぎとることはできない。

ここで泉谷先生の著作にでてきた「5本のバナナ」の話を思い出す。
5本のバナナのうち3本を食べると満足する。だから私は3本食べる努力をする。
3本食べたいところを我慢して2本に留め、残り3本を相手に渡そうなどとは考えない。
自己中心とは違う、本当に心を満たすために自分がどうすればよいかだけを
考える。自分の幸せを考える。その先に他者を幸せにする余力が生まれる。

餓鬼は醜い。けど人間は生まれたとき、天使だったのだ。
餓鬼になった理由を把握し、餓鬼で居続けた原因を特定すれば、いつか餓鬼から
抜けられる。

今餓鬼だったとしても明日餓鬼とは限らない。
天使に戻れる日を目指して、3本のバナナを食べようと思う。