バス停を間違えていることにいつ気がつけるか

絶望とは、渋谷行きのバス停で新宿に行くバスを待っているときに、待てども待てども
新宿行きがこなくて、通りすがりの人に「それは渋谷行きですよ」と言われたのを機に
そのバス停を離れて、新宿行きのバス停へ向かうこと。
(「普通がいい」という病 より)

絶望が成り立つためには、通りすがりの人にバス停が違うと教えてもらうことと

今まで間違えたバス停にいたことを認め、次へ向かうことが必要だ。
ところが頭に刷り込まれた情報によって、バス停を間違えていたと分かっていても
今待っているバス停が間違いであると認められない。
認めるために乗り越える壁は、アダルトチルドレンとしての深刻度が大きいほど
高い。

間違っているのにしがみつく。そのとき人は何かに執着をしている。
バス停を間違えていたために無駄に過ごした時間か、バス停を間違えた自分の愚かさ
を認めたくない気持ちか、バス停を変えることで起こる新たな試練を避けたい感覚か。

私は何に執着しているから、人よりへりくだってしまうんだろう?
そこまで他人を傷つけたり、気分を害することが恐いのか。
傷つけたところで、一体自分にどんな痛みが発生するのか。
嫌われ、見捨てられる不安が恐いのか。

どうせ独りだ、誰も助けてくれない と他人を拒絶しているのに、なんでそこまで
他人を必要とする?
最初に嫌だと意思表明しないから、相手が図に乗って、ある程度行った所で
こちらの堪忍袋の緒が切れて、相手と離れてしまう。
最初から嫌だと言えば、傷は深くならないし、素の私でいいと思う人しか残らない
ので、パワーバランスの悪い人とつきあう労力が省略できる。

そんなに人に気に入られようとしなくてもいい。
自分で自分を認めればいい。
自分の中に、もう一人の自分を作る。