育てられ方を学ぶ

私は親にものすごくプレッシャーを掛けられて育った。
「ベキ論」で固められた義務に溢れる子供時代を送ったので、どのような子育てが本来の正しい形なのかが分からない。

「ベキ論」はいつまでも我の中で引きずり、無気力や無感動といった陰を落とす。

でも私は抜けたかった。
こんなふぬけな人生から。
オスカーワイルドのいう”存在しているだけ”から。

そこで参考にしたのが左バナーにリンクの張ってある「柴犬のチコ。」だ。

チコママと柴犬チコのなんのへんてつもない毎日が書いてある。
読み始めたのは5年以上前、最初は柴犬画像に惹かれて読んでいたのであるが、チコちゃんに寄せられるチコママのあまりの愛にいつのまにか、「ええなぁ」という感情が湧いてきた。

なにもなくても我が子が好き。
ずっこけもへっぴりも、スカも、クサっぁ~も全部愛おしい。
そんな感情が私の心に小さな変化を起こした。

それまでの私は、ミスを許さず、役に立つことを追い求め、利潤を追求していた。
まったく逆の人生を歩むチコ親子。
でもこのブログのファンはとても多く、チコちゃんは人気とともに本の発売やCM出演をしている。
大躍進だ。
過去の私のルールでは、頑張っていない人は相手にされない・好かれないなのに、何故?である。
その事実が、私に”アンタの人生の歩み方間違ってへんか?”と疑問を投げかけてくれた。

現在私は柴犬を一頭飼っている。
とても愛らしい顔立ちで、つやつやの毛をしている。
それは初めて犬を飼う私に多少ラッキーだったと思う。
だけどなによりもこの柴犬が私の目にかわいく映るのは、自主性を尊重して育てたからだと思う。
近所の繋がれたワンちゃんは、近づくと威嚇して吠えるものの、普段はまるで死んだかのようなうつろな目をしている。
散歩にも連れて行かれているし、えさももらっている。
だけど、ぜんぜん家人に構ってもらっていないのだ。
わんちゃんがどう思っているのか?なにに興味があるのか?その家の人は興味がない。
ただ犬を飼ってみよう程度に思っている。
だから、目の奥の輝きが失せているのだ。
そのワンちゃんは、過去の私そのもの。

私の育ってきた過去は、もう変えることは出来ない。
それでも、柴犬の飼育を通して、どう育てられるのが正しかったのか知ることは出来るし、柴犬の表情を見て嬉しそうだなと思えば、私自身がうれしく感じる。

そうやって育てながら、学びながら、多くを自分の中に取り入れることは可能だと思う。
”愛”というのは、そこにあれば何かしらの魅力を生む。
合理性や利潤がなくても、愛さえあれば十分なのだ。

それほどに強い”愛”。
もらえる人ともらえない人がいるなんて、人生の出発点はなんて不平等なんだと思いつつ、でも取り返してみせるさと思うのでした。