強欲がぶつかり合う婚活

「ここまで頑張ったんだし、格下の男性と結婚するのは嫌っ!」という女性
「若くて従順で、見た目のかわいい共働きしてくれる女性としか結婚したくない」という男性
互いが最も持っていないものを求め合っているため、アンマッチング。

年を重ねれば、そりゃ~目も肥えますわな、先を越された悔しさから一発逆転狙いたくなるわな。

でもね、望むのは自由、現実はついてこない。
分かっていて尚、望みの薄い結婚を夢見るなら、その口元にチャックして、黙って婚活なさいな。

結局「あれも嫌~、これも嫌~」とぜいたくを並べていると、手に入るモノも容易に逃げていく。
”二兎追うものは一兎をも得ず” なんですよ。
でもここで婚活難民を批判するだけじゃ、能がない。

ということで、なにゆえ欲深くなってしまうのかを考えてみる。

2歳くらいでイヤイヤ期が訪れて、子供が親が何をいっても「いやー」と答える時期がある。
そのとき子供は、”親に反抗的な態度を取っても、自分は愛されるのか?”を無意識に確認する。
そこで親が「『いやー』なんていう子は、うちの子じゃない」と脅迫したり、「黙りなさい」と押さえつけると、子供は”ボクは愛されていないんだ”と思い、愛に飢えて余計に「いやー」を繰り返す。

幼児期を通してずっと親が子供に我慢をさせ、愛していることを伝えられずにいると、子供は心の中に安心を飼えなくなる。

安心が定着しない子供は、別のことで補償行動にでる。
それが「オレ様は偉いんだぞ!だからみんなオレを尊敬しろ、羨ましがれ」という誇大自己だ。
正常生育を受けた場合も誇大自己は表れるが、
愛されることを通して自分だけじゃない他人もいるんだということを知ることになるので、他人目線の考え方や他人への配慮が育まれ、誇大ぶりは徐々に低下し、成人になるころには、協調性のある人格に育つ。
ところが、愛されることを知らない、即ち親や兄弟や友達といった他人を認識できないと、自分という王国でふんぞり返って、「我の思い通りにしろ」と杖を振りかざしたまま成人することになるのだ。

そういう人は打たれ弱く、就職活動が上手くいかないと、「企業の人に見る目がない」と言い、好きな人に振られると「アイツはオレのこと分かっていない」と他人のせいにする。
自分を振り返ることなく他罰的に生きることになる。

妙齢になって、結婚という話になったときも同様の振る舞いをし、あくまで”自分の気に入る人に自分が求められること”を強く望むようになる。
で、最初の文のような台詞になる。

つまりは結婚に必要な取捨選択をする前の、他人を認識し誇大自己を適度な大きさに下げるということに失敗していることになる。
とすれば、周りに相談して”理想高すぎ”と叩かれることよりも、愛されるイメージとか愛するということの根本に光を当て、自分はどう感じるのかを振り返る方が先じゃないかと思う。

でないと、いつまでたっても、「やっぱり妥協できない」の堂々巡りになり、もはや理想の人が目の前に現れるのを、指をくわえて待つ天任せになりかねない。

結婚するということは、人間として一つ試練を抱えることであり、それは自分を成長させてくれる。
せっかくその意志はもっているのだから、なるべく成就するように、まずは自分の心の中から見始めては如何でしょう。