言葉の差が生む印象

発言小町のトピックで、[お見合いの相手(男性)が公表身長より低く・か細くて、一緒にいても息苦しさを感じるタイプだった。別れ際、電車まで見送られたのだけど、いたたまれなくなって目をそらした]という内容が挙がっていた。

このエピソードの中で私の関心を引いたのは、男性の「電車に乗るところまで見送りたい」という言葉。

この意味は(ボクは今まで女性とつきあったことがないので、一度くらい見送るという行為をしてみたい。ついでに恋愛マニュアルには好感度が上がると書いてあったので、相手も喜んでくれるに違いない)である。
ボクの欲望を達成するための女性という位置づけ。

こんな短い言葉の中に、自分の主張は見事なほど凝縮されている。

仮にこの男性が女性づきあいに長け、いい距離感を保てるならば、「電車に乗るところまで送るよ」というだろう。

「見送りたい」と「送るよ」、めちゃめちゃ言葉としては似ている。でも中身が全然違う。
「送るよ」の主体は女性である。(女性が安全に帰路につけるようにフォローするよ)というのが、この言葉の意味。ボクの欲望を達成するためじゃない。

意識の差というのは言葉尻に表れてきて、その差は相手の無意識下に伝わる。
だから「なんとなくウマが合う」とか「理由は解らないけど好感が持てる」のように <意識上は差を抽出できないけれど好き・嫌いが発生する> のである。

この小さな言葉の差が見分けられないようでは、人心掌握術を身につけることができない。
同じ事を言っているのに、アイツは認められて、オレは認められないと悩んでいる人にこそ、上記の例の違いをしつこく考えていただいて、言葉とは一体何を表しており、何が伝わるのかを理解して欲しいと思う。

人は自分が意識するよりも敏感で繊細に出来ている。