無駄な期待

人はなぜつぶやくのだろう?

それは自分にわき上がった感情や思いを誰かに共感して欲しいから。
今自分が生きていて、それを認めてくれる仲間が欲しいから。

 でも、それって自分の内部に、自分の感情を受け止めてくれる他者がいないということでもある。

共感を期待して感情をだし、誰からも受け止められないリスクを考えると、自分の中にもう一人の自分を生みだし、そいつに共感してもらうことで完結する方が安全ではないだろうか?

私は言葉が多い。それ即ち、私を認めて欲しい強い欲求の表れ。
しかし、その要求を言ったところで、親、兄弟、友人、配偶者といった周囲との関係は最悪だし、彼らは自分の側でしか言葉を紡ぐことが出来ないので、話すだけ無駄である。
共感どころか、こっちが相手に共感しなくてはならないはめになる。

愚かな私はそれでも相手に共感して欲しくて必死で相手に気を配り、いつか私のことを真剣に思ってくれる幻想を抱いてた。…待てど暮らせどその日はこない。
結局私の期待が間違えていたようだ。
私の気持ちを共感できるのは、もう一人の私だけ。
その一人とよく話をして自分の中で完結した方が、効果的で賢い選択だ。

人は孤独になるほど、人に恵まれる。
人を求め期待を寄せて彷徨えば、よからぬ輩につけいられるだけ、同類を引き寄せるだけ。
精神的自立なき人に、自分を超えて他者目線で考えることなどできない。
幼き精神の我と我のぶつかりあいは、どちらの力が強いかのシーソーゲームになって、勝っても負けても絆という人間として大切な要素を手に入れることはできない。

すべての人との繋がりを諦めて、我の中に我を見つけることこそが、今のこの不快な現実から立ち直る唯一の術であると思う。