愚痴を言わないでいるためには?

今年【も】、みなさんと同じく一人でお正月を過ごしているKOMAです。
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年始挨拶もなし、おせちもなし、で普段通りの淡々とした暮らしができるのもまた、心地の良いものですよ。TVでもつけなけりゃ、平日と同じノリ。掃除やら洗濯やらをガンガンこなしていけそうです。

さて、一人でいるとなにかと寂しい、という人がいます。では二人以上で何をしたのか?と問うと、「話を聞いて欲しい」とおっしゃる。話したいことというのは、普段自分が思っていること。
思いを、受け止めて欲しいんですね。

では、あなたの思いを受け止めてくれる人がいるかどうか、考えてみましょう。

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独りぽっちになるわけ

思いを吐き出すのは楽です。では、人様の思いを受け取るのは楽ですか?

吐き出したいくらいですから、捨ててしまいたいくらい無価値なもの。持っていて負担なもの。それは他者にとっても、同じ。断じて要らないものです。

ですが、吐き出さざるを得ない人にとって、押しつけられる相手を思いやる余裕はありません。出して、出して、出して、一刻も早く出し切りたい。だから、溜まったら吐き出すを繰り返します。

当然ながら、押しつけられた相手はストレスに感じ、押しつけられることを回避しようとします。結果、せっかく、受け止めてくれる人ができたけれど、早々失うはめになる。独りぽっち決定です。

ですが、その先、二つのパターンが現れます。

一つ目のパターン

これは、【学習しない】パターンです。

なぜ、独りぽっちになったのか?と言えば、「自分が人にストレスを与えてしまったから」です。元凶は、「自分」です。

ところが、学習しない人は、元凶を「自分」だとは思わず、「他者」だったり「タイミング」だったり「運」のせいにします。相手がたまたま忙しかった、仕事を始めた、他に仲の良い人ができた、と。

なので別の誰かを探して問題の解決を図ろうとします。

ただ残念なことに再トライしたところで、結果は目に見えています。このループを死ぬまで繰り返すことになるでしょう。

二つ目のパターン

これは、【学習する】パターンです。

きちんと元凶を「自分」であると認識し、何が悪いかを理解しようと努めます。簡単には見つからないかもしれません。それでも考えます。

するとあるとき、気づくのです。「抱えているものを誰かに押しつけるのは、エゴだ」と。「他人は私の思いなど、見たくも聞きたくも触りたくもないんだ」と。

これが理解できると、「吐き出したい」と「聞かされるのはまっぴら!」に横たわる隔たりに驚くことができると同時に、絶対コレやっちゃダメなヤツという戒めに襲われます。

戒めが後悔を誘い、自分を打ちのめし、さんざん荒れ狂ったあと、嵐が去った後の静けさのように、「もう、愚痴をいうのはやめよう」という穏やかな境地が開かれるのです。

新たな問題発生

どちらのパターンが、より現実に近いか、お分かりですか?
分かりますよね。二つ目のパターンです。

押しつけられる相手のまことの心理を知ることで、現実への眼が見開かれます。やっとここで、「世界のどこかに私を受け止めてくれる人がいる」というファンタジーを捨てて、「誰も受け止めてくれる人がいない」という地に足の付いた考えを得ることができます。

と同時に、「思いを抱えきれなくなったときにどうすればいいのか?」という新たな問題が生まれます。一難去って、また一難。事はそう簡単ではなさそうです。

そこで、吐き出すとは別の方向で、心の澱を解消する手段を考えてみます。「吐き出す形態を変える」なんてのはどうでしょうか?

吐き出さずにどうする?

なぜ、心の中に吐き出したいものが溜まるか?
それは吐き出したいものを、自力では消化できないから、にほかなりません。

だったら違った形で「消化」しましょう。未消化なものを押しつけるのではなく、消化するためのアイデアを募るのはどうでしょうか。

そのためにまず自分で問題を整理します。「なんとなくあれが嫌だった」、ではなく、「事実はこう、気持ちはこう感じた、どこに合点がいかないから、なにかアイデアがあったら教えてくれないか」に変える。

こうすれば吐き出すのではなく、頼ることへと形が変わります。押しつけるから、教えを請うへ。

楽して解決する道などなし

このやり方にハードルがあるとすれば、それは、思ったことを整理する手順が要るということです。

他者への最低限の礼儀として、自分の中で問題を整理し、表に出せる形へと整える。この労力を当たり前と受け入れることができてはじめて、協力を得られるのです。

他者はどこまでいっても他者です。まともに整理されてもいないものなど、相手にしません。

そこ、押さえておかないと、「話を聞いてくれない」などといった被害妄想に囚われてしまいます。

愚痴をいわないでいるためには?

話を整理することは、なによりもまず自分のためになります。案外、整理することで自分で片を付けられるかもしれません。

他者の力を借りれば、それだけ借りができます。その借りをどう返すか考えるのも、また一苦労。かといって礼をせずにいれば、呆れられるか捨てられるか。

「ありがとう、助かった」という言葉は、案外どのタイミングで、どのニュアンスでいうのかが難しいのです。

相手ありきで人生を設計するより、自分一人でやりぬこうとした方が、自由度、高いです。そしてたまにしか思いを言わない人の方が、真剣に聞いてくれます。

愚痴を言うということは、即ち、相手は私の感情の犠牲になっていい・甘えて言い存在だ、を意味します。そんな自己犠牲にあふれた人がいないのは、あたりまえですね。

もうそろそろ腹をくくりましょう。あなたの犠牲になってくれる人など、居はしないのです。

「人は私の話など聞きはしない、だから話を整理して、教えを請うのだ。」そう思っていれば、自然と愚痴から遠のきます。
(※さんざん思いの丈を言った後に、最後に「アドバスください」でまとめることとは別物なのでご注意ください。思いは口外してはいけないくらいの腹のくくりかたが重要です)