半沢直樹にみる善と悪?

ドラマ「半沢直樹」に触発されて原作を読みました。
そこに描かれているのは善と悪。この分かりやすい構図は読者に受け入れられやすいです。

さて、なぜこのように分かりやすい構図が生まれるのかというと、悪側が自分たちの正義を絶対だと確信しているからです。

真理を知っている人は、「絶対正義」はこの世にないことを知っています。
自分が正しいと信じても、環境や要因によって正しくなくなる場合がある。

例えば数十年前の白人による黒人差別。
同じプールにはいることさえ”ありえない”とされた時代がありました。
そのときは、白人にとって肌の色で差別するのは正義だったわけです。
しかし今、差別を絶対正義!と確信できることはなくなりました。
そんな正義を掲げたら、速攻でボコられます。さらに日本では名誉毀損罪になる。
違法行為です。

頭の固い人は、正解が100も200もあること、自分の思う正解が絶対ではないこと、が分からない。
だから自分たちの思う[下の者は上の者に黙って従う]たった一つの正義に沿わない主人公半沢をやっつけようと躍起になるのです。

善というのは、普段人の心の中に密やかにいて、善行するよう働きかけます。
お金は拾ったら交番に届ける、窓が開いていても勝手に中に入らない、問題が起きたら相手の話をよく聞く、自分の責任は自分で取る。
これ全て、心の中の善が行わせる行為です。

ところが悪はでしゃばりで、善を叩くことでその存在をアピールしたがります。
悪は悪と手を組み、噂や妬みそねみという方法で横へ横へ広がります。
気付いたら結構な勢力になってたりする。

やられっぱなしでは善の腹の虫が治まりませんので、仕方なく悪と同じ表面に立って、戦うことになるのです。
…でも、そもそも悪がアホぅな固定概念(自分は正しい)を持つから対決が生まれるのです。

小説では、善よ勝て!と願いを込めながら読み進むわけですが、我々は実生活において何が善で何が悪か意識しているのでしょうか?
存外、自分は正しいと信じる頑なさが、自分を悪たらしめていることもあるんじゃないかと思います。
自分を信じる強さと、自分は正しいと信じる頑なさの見分けがつかないようでは、まだまだ善への道は遠いと言わざるを得ません。