友達止まりの相手とは

結婚というのは、共に支え合うためにある。
支え合うのはなにも金銭的だけではない、精神的なものもある。
しかし、世の中には精神的に支え合うの意味が分からない人がいる。

どんなにまめに動いても、どんなに相手の言い分を受け入れても、相手のために自ら考え行動する人でなければ、価値らしい価値を感じてはもらえない。

支えるというのは、他者目線を持ち自発的に動くことによって、相手に「ボクがいますから、安心してね」というメッセージを投げること。”この人がいればなんとかなる”と錯覚させること。
それが出来なければ、話が合おうが、趣味が同じであろうが、精神的に支えることにはならず、気の合う「友達止まり」で終わる。

性的魅力、経済的魅力、美醜は一過的に相手を魅了するには強力な武器だろう。
しかし結婚とは生活である。
生活は継続するものだから、ほどほどに「~し合う」関係が必要だ。
何をし合うのか?どのさじ加減で行くのか?→それはその人の自主性に任される。
だから他者のために頭を使うことが何よりも重要視される。

自分が困っているとき、「ふぅーん」と話を聞く人と、「それは大変だったね。○○なら力貸せそうだけどどう?」と言ってくれる人、どちらが頼りになるだろうか?どちらが家族として迎え入れたい人だろうか?
頭というのは使うためにある。その頭を最大限使うために、情報を聞き出すための口や耳がある。
その資源を当たり前のように他者のために使うことができなければ、どの人とも友達以上にはなれない。

家族をもてない、家族が崩壊する人は一様にこの力が不足している。
親子と違って大人同士であれば、この力が不足していても力の伸ばし方を教えてなどくれない。
自分で意地でも手に入れていかなければならない。
欲しいものがあるなら、自分で努力して手に入れる。これが大人に課せられた厳しい現実なのです。