怒りを表すことのできない自分

私は失礼なことを言われても、その場で怒りを表すことが出来なかった。
後輩にバカにされても、副社長に失礼なことを言われても、専務に意見を押しつけられても、上司に前職のことを否定されても、怒らなかった。
だから舐められたし、言いたいこと言われたし、溜め込んだ怒りが爆発して職を辞すことにもなった。

私にとって、怒りを表明できないことは人生を行き詰まらせるらしい。

怒りを表明するというのは、なにもカッとなって怒鳴ることだけではないと思う。
むしろそんな風に感情任せに怒るのは小者のやること。
大物は発言者が失礼さを心底後悔するまで追い詰める。冷静に。
そうすれば、相手は二度と屈辱的な思いをしたくないので、私の前での言動に注意を払うだろう。

たまにそういう大物に出会う。
いったいその人の心の中はどんな風になっているのだろう。
おそらく自分の感情より優先すべき信念を持っていると思う。
だから感情よりロジックが先に出てくる。
”相手が自らを勘違いしたまま生きるのは相手にとって気の毒である”という思いがあって、”じゃあ救ってやるためにはどぅ投げかけたらいいものか?”と考え、ロジックの方へ意識を向ける。

誇大自己をいい具合に潰されて調整されていない者は、自分勝手に振る舞い、周りに迷惑を掛ける。
結果、周囲にのけ者にされ、仕事を取られ、家族を失う。
最終的にその人自身が気の毒な状態になる。
だから自分の前で誇大自己を爆発させている人がいたら、それを正す力添えをする。
それも愛ではないだろうか?

不動明王は、愛するが故の怒りというのも存在するということ表すために、あの表情をしている。
怒りというのは、感情を爆発させたり、相手を潰すためにあるのではない。
相手を正すためにあるのだと思う。
だから怒りを出せなかった私は、自己保身に走った冷徹な人間だったということになる。
嫌われたくないという一心で、黙り込んだのである。