人は生きていくために「大切にされる」を求める

礼儀ってなにのためにあるか、考えたことあるだろうか?

私が思うにおそらく「気遣い」のためにあるのだと思う。

人が痛みに苦しんでいたら、それを気遣い見舞いの品を渡す。

婚礼が決まって喜んでいる人に、あなたが喜んでいて私も嬉しいという気遣いとしてご祝儀を渡す。

一緒に喜んでくれて大変にありがたい、という気遣いとして引き出物や内祝いを返す。

そうやって、私は貴方を思っています→思われて嬉しいです。私もあなたを思っていますよ、と返して円滑な人間関係を築いている。

そこから外れると人付き合いは上手くいかない。その理由とは?

怒る人々

「あの人、礼儀知らずじゃない!」
こちらが何かしても、何も返してくれない相手に人は憤る。
そこには金銭的損得勘定も働くだろうが、なにより怒っているのは自分をないがしろにされたこと。

自分は与えたのに、与え返されないと「ふざけんじゃねぇ!」と怒る。

その怒りの源には、「私を大切にしてくれなくて悲しい」という気持ちが潜んでいる。
人はどこかで自分を大切にされたいという気持ちがあり、それを打ち砕かれると悲しみにうちひしがれる。ただ悲しみは意識下の感情で、表には「ふざけんじゃねぇ!」といった怒りが表れる。

怒らず離れる人もいる

もちろん、まったく怒らない人というのもいる。

ただし不快に感じていないのではなくて、不快だけど自分をないがしろにされた、とまでは思っていないだけだ。

自分は与えた。けど相手から与え返されなかった。だから離れよう、と。

冷静さの裏には、「私は私を大切にするので、他人がどう思おうと自由。ただし大切にしてこようとしない人とはつきあわない」というポリシーが潜んでいる。
怒らない人もまたどこかで大切にされたい気持ちはある。だから搾取されるだけのつきあいなどさらさらする気がない。

相互の助け合いこそ生きるすべ

古くから人と人は助け合いの中に生きるすべを作ってきた。
一人じゃ出来ないけど、みんなとなら/分担すれば、できる。そのことが「人」という生き物を生きながらえさせた。

言ってみれば、大切にする/されるはライフラインの一つだ。
このライフラインを己の都合だけで一方通行にするやつは、我が身を危険に晒しかねない。
だから与えられることだけを望む輩に対し、負の感情を持つ。

大切にされてないのに自分を責めるな

精神的に成熟だろうか未成熟であろうが、人は「大切にされる」ことを望む。

そのことを知らないと、相手の結婚式には行ったのに、私の結婚式には来てくれない相手を恨む自分を責める。「自分は未熟者ではないか…」と。

もちろん、そうではない。生きようとする者にとって当たり前のことだ。相手が身勝手に大切にする/されるのループから外れただけ。
もちろん、お相手にも育児や介護で手が離れないといった事情があるだろう。それでも恨みが生まれるということは、欠席のフォローが十分されなかった証拠。
人は全く同じ返しを望んでいるのではなく、気持ちとして等価であれば、恨まずにいられるもの。

おそらく掲示板に相談しても「諦めな」という言葉が返ってくる。そもそも相手に「断って悪いな」という気があるのなら既に十分なフォローを受けられてるだろうから。

ループを逸脱した人間に戻る場所はない。恨みの感情が生まれた時点で、すでに縁は切れている。

でも落ち込むことはない。自分を守るのは自分だけ。自分が一つの命である以上「大切にされない」人と関わるべきではない。