居ても居なくてもいい存在の自分

自分という存在が社会から忘れられている気がする。
それすなわち、自分が社会に働きかけられていないことを示す。

私は小さいときから、居ても居なくてもいい存在だった。
他人から見て、私という存在は利もない代わりに害もない。
仲間はずれにするほどでもない、かといって積極的に誘うほどでもない。

周囲にどーでもいいと扱われるポジションだったと思う。

そのせいか、私の心はいつも後ろに引けていた。

他人のことを知ろうとするより、どぅでもいい存在から特別な存在になるために必死で無駄なアピールをしてきた。
こだわりがあるアピール、主導権があるアピール、かわいそうなのアピールなどなど。
アピールづくしで、うるさい子供であったと思う。

きっと幼い私は、本当は親にこっちへ向いて欲しかったのだろう。
他の兄弟ではなく、私を見て欲しかった。
しかし得てして長女という存在は、我慢すべき存在として扱われやすく、親の目線の先には年下の兄弟がいた。

温かい目線を向けられない子供は、愛がわからない。
愛がわからないから、他人を愛せない。
他人を愛する代わりに、表面上優しくする技術だけが磨かれていく。
芯はないけど、優しく見える人間一丁できあがり。

それが、私。
私のような人間は完璧を求める。足りないところに目が行く。文句や愚痴が多い。

社会に出たら否応なしに、いろんな人の主張に出会う。
思い込みの激しい人、自分の利益しか考えない人、他人を虐げることを喜びとする人。
そんな心の腐った人に出会っても、私は対抗するだけの芯を持ち合わせていない。
だから負ける。くじける。
そして怖くなって逃げる。

意気地なしの自分。

私の心を支える何か。その何かが見つかるまでは、ビクビクしながら生きることになるんだろう。社会に出て行くことを躊躇するのだろう。
学歴や容姿や経済能力に秀でていても、それが社会に出て行くための自信・打たれ強い理由にはならない。
やはり、芯がない人間は環境につぶされてしまう。

そして、そういう人間に限って、支えになる人間関係に乏しい。
超、負のスパイラル。
うーん、どうしよう。どうしようかなぁ。