エスになれれば、手段なんてどぅでもいいかも

フロイトの心的装置理論(エス、自我、超自我)という3層構造の概念について、その昔カウンセラーに教わったことがある。

私の不調の原因は、エスがあまりに押さえつけられて3態のバランスが崩れていると。
「~したい」という気持ちで構成されるエスの領域は、確かに自分が何をしたいかを見失っている私にとって、ほど遠い場所にある。
なにをするにも自信がなく、人からの評価を求め、それによってかろうじてその場に立ち続けることの出来た自分は、心の底からわき上がる情熱に突き動かされていたとは言いがたい。

私に限らず現代人の多くが、親から「こういう人生が幸せなのよ」とすり込まれ、それが幸せと感じられない自分にいくばくかの焦りを感じ、落胆している。
ネットの世界に自分の居場所を求め、「我」を見つけようと徘徊を繰り返す。

もし、エスの部分を大切にしつつ、社会と和やかな接点を持つ方法を親が教えてくれたなら、ここまで自分探しに明け暮れなくても良かったろう。

とはいっても、ある程度大人になってしまった我々は、自信のなさを親に転嫁することなどできない。
従って、別の手段で「我」を取り戻すのである。

ちまたにはありとあらゆる手段がある。
スピリュチュアル、なんとかセラピー、仏門に入る、瞑想etc。
ものによっては怪しく、またものによっては覚悟がいる。
ただ、それらの手法が目指すところは同じなのである。

エスを手に入れた者は強い。
それくらい我々は自我(規範)に押しつぶされ、足下おぼつかなく生きているのである。
あんまりへんな宗教とかはごめんだけど、それ以外なら、どんな手段であってもいいんじゃないかと思い始めた。

スピリチュアルは怪しい~と避けまくっていたが、足を踏み入れてみるとそうでもないのかもしれない。