小さいことに嫉妬する私

たまに覗いているブログに、新年早々「○○取り寄せました~」と書いてあって、イラッとしてしまいました。

私がイラついているものの正体

表面的には、中流家庭の私には高い食べ物を取り寄せる経済力が無いので、単なるひがみのように捉えられます。
でも、これってひがみです、の一言で終わらせることでしょうか。

経済力はひとそれぞれ。放っておけない自分の心にも、なにかからくりがありそうです。
試しにイラっとしている原因を挙げていきましょう。

1.正月しょっぱなから自慢かよーという気持ち
2.なんでそんな高いものが世の中にあるんだよーという八つ当たり
3.取り寄せって、ヒマなのかよーというひがみ
4.どんな味がするんだ。私は食べられないじゃんか!という格差への落胆

負の感情をこれでもか!と出しまくってみました。
要約すると、自分が満たされてないから、他者の幸せを黙って見守れない、ということでしょうか。

制約を受けるのが嫌い

今のところ大病もせず、衣食住にも困らず、傍目から見ればそこそこの幸福度を保っている自分。
けれど、経済的に豊かな人を見ると、なんだかなぁ~と思うのです。

それは、買えるという事実より、買える自由を有していることへの嫉妬でしょうか。
自由っていいです。
矢部正秋(弁護士)さんが言ってました「オプションがあるほど、自由だし強い。」と。
このオプションというのは、選択できる戦略です。
相手の弱みを突いて有利な条件を引き出すのか、こちらのカードが弱いのでなんとか和解にもっていくのか、訴訟相手の範囲を広げて論点を拡充するのか、といったこと。
たくさんあれば、AがダメならBと、自分が納得した範囲で結論を得られる。選ぶ自由がある。
私はそれに深く同意します。

抑圧されてきた私は、人一倍自由に敏感です。
自由でいられないことを嫌います。
たとえめちゃくちゃお金があっても、モノが欲しいとは思いません。
ただモノを選ぶときに、お金の上限が厳しいということ自体が嫌いです。

それでもたぶん、経済的以外のところで自由であればそこまで他者の自由に影響を受けることはないのでしょう。
まだまだ制約を受けていると思い込んでいるところがあるのでしょうね。

自分に聞かせる言葉

しかし、際限なく物事を決められることはありません。
時間や体力、費用といった制約が掛かることは、避けられない事実といえましょう。
その制約において、最大限のパフォーマンスを上げようと努められる人は、私のような嫉妬心を抱くことはない。
自分なりの幸せを手に出来る幸せ体質の人です。

「置かれた場所で咲きなさい」というのは傲慢な私を諫めるための言葉かもしれません。

隠れたからくり

人と比べ、モノ同士を比べ、満足に結びつけようとする行為。
それは正しくもあり、間違いでもある。
比べなければ、相対値が分からず、満足いく判断できない。
でも比べたら、嫉妬やみじめさ、といった感情が生まれる。

物理的には比べるけど、心理的には比べない、という境地が心穏やかに暮らすコツでしょうか。
だとしたら、普段から比べることで心を満たすという愚行を改めなければなりません。

自分が幸せだと思えば幸せ!という自分を軸にした生き方は、他者がどうであれ、自分の心の有り様を優先します。
幸せの実体はふわふわしていて、これが幸せの尺度ね、といいきれるものはない。
ただ、普段から心が不幸だと、なかなか自分で心の幸せを造ることが出来ずに、ついつい外界の比較にゆだねたくなります。
きっと私の心はそんな段階にいるのです。

だからといって、ダメ出しをする気はありません。
今そうなら、そうなんだと認める。
これから先、考えを変えたくなるような出来事に遭遇したら、変える。それでいいじゃないか、と思います。
とりあえずは、まだ心の満足レベルゲージが低いんだな、ということを自覚するとします。