世の中にはどっちが悪いか、どっちが折れるべきか、といった論争がたくさんあります。
ベビーカーを通勤電車に乗せる是非、子育てで時短労働をする人とそのしわ寄せを被る独身者のいがみ合い、稼げばいいだろうという夫と家事・育児をしない夫に不満を抱く妻との攻防。
おそらくこれらの問題は、どちらの側から見るかによって、どちらも正しい・どちらも間違っている、という結論に至ることでしょう。
では、どう考えたら一応の決着が付くのか。
ベビーカー論争を例に考えてみようと思います。
双方の言い分
【通勤している人の言い分】
- ただでさえ狭い電車に、ベビーカーのような場所を取るものを乗せるのは身勝手な行為だ
- 空いている時間帯を選んで、ベビーカーを乗せればいい
- 抱っこひものような場所をとらないものでは代用できないのか
- 殺気だった車内と赤ちゃんは不釣り合い
【ベビーカーを押してる人の言い分】
- 病院がその時間にしか予約できないことや自分の出勤時間などのこともあり、通勤ラッシュ帯を避けたくても避けられない
- 腰痛持ちで赤ちゃんを抱くのは無理。ベビーカーでないと移動が難しい。
- 赤ちゃんが電車に乗ることは、権利として認められるべきだ
きっとベビーカーを押している人も、そうなるまでは、すし詰め車内のベビーカーを疎ましく思っていたはず。
同じ人間でも立場によって、考えが180°変わるのですから、別人なら言うまでもありません。
さて、どっちもどっちの言い分に収束の未来はあるのでしょうか?
収束のために見つけ出すもの
どっちがより正しいかを議論することに意味が無いのは明白です。
全ての人に人権が保障されていて、どっちがが犠牲になればいい、という結論はない。
だとすれば、半々に拾う?
どうやって?
それもまた無理そう。
なので、互いの共通の目的を探ります。
例えば
「電車でスムースに移動したい」
その目的を達成するために出来ることはなんでしょう?
ベビーカーを敵視することでしょうか、通勤者の冷たさを罵ることでしょうか。
違いますね。
どうやれば、互いが嫌な思いをできるだけせず、衝突を起こさずいられるかを考えることです。
トラブルは下手をすれば遅延を生みます。そうならないように、みんなで協力する。
誰一人ふんぞり返ることなく、電車という限られた空間を共有する。
そういうことです。
物理的に何か変わるわけではない。変わるのは、その場にいる人々の心の内だけ。
それでも、目的を達成するための共同体として一人一人が心がければ、何かが変わる。
もしかしたらひらめきに優れた人がいて、「こうすれば、ちょっとマシになるよ」という提案をしてくれるかもしれない。
これが解決です。たいしたことないですか?もっと画期的なのがいい?
それは次に考えてみましょう。
社会構造を巻き込んだ解決を図る
電車の混雑が酷いのはなぜでしょう?
それは通勤時間帯が重なっているから。その沿線に住んでいる人が多すぎるから。全員が会社に行かなければならないから。
様々な理由が考えられます。
この一つ一つを、本当にそうじゃなきゃならないのか疑ってかかることで、解決への糸口が見えてきます。
フレックス通勤、在宅勤務という勤務形態を通して、定時に通勤という縛りを解く。病院へ行かなくても診断できるシステムを構築する。子育て中の人には通勤時間をずらす配慮をする。保育園幼稚園の朝受け入れの時間を延長する。
そうやって過度の集中を分散させる、電車に乗らなくてもいい方法を取り入れることで、物理的解決を図ることができます。
まずは言葉の工夫から
いきなり社会構造を変えるのは難しい。だったら共通の目的を見つけて、気持ちから変えていけばいいのではないでしょうか。
電車内に各社工夫を凝らしたポスターを展示しています。それをもう一歩踏み込んで、あの人もこの人もみんなにメリットのある目的を思い出させるような言葉を盛り込んで、協力体制を引き出す方法なんてどうでしょう?
もちろん会社や病院といった社会の側も、出来ることからやっていく。そうすれば、いつか真の意味で問題は解決します。
みんなが利己的に走れば、相手の利己を誘発してしまいます。
だから互いが協力しあえるように、まずは小さな言葉の工夫からやってみる、これいかがでしょう。