周りの目を気にしなければ、見下しって気持ちいい。
自分をパーンと貫いて、正義感を振りかざす。絶対神感。
でも、それって近視的に見た場合だけ。後にとんでもないしっぺ返しを食らう。
では、見下しがもたらすしっぺ返しって、どんなんでしょうか?一から丁寧に考えてみたいと思います。
見下しが気持ちいいわけ
見下しの気持ちのよさの理由を考えた人ってどれ位いるんだろう?
ほとんどの人はただ気持ちいい、で止まってる。
ここでは、もう少し掘り下げて考えてみたい。
「あんな服着て、マジ、センス悪いよね~」「○○するなんて、信じられなーい」「ありえなくね?」
そう見下すとき、我々は何が自分をそうさせているか、という視点を持てていない。知らぬ間にそうさせている何かに支配されている。
その何かが携えてきたものに、あなたは強烈な嫌悪を感じ、急いで外に吐き出そうとする。それが見下し行為。
見下すことで、嫌悪感をバッサリと捨て、平穏な心を取り戻す。
捨ててるのは、嫌悪感だけではない。
ため込んだ自己否定ともバイバイできる。
他者をやり玉に挙げて見下すとき、”相手が悪いんだから、私は嫌悪感を捨てる権利があるのよね”、という神感が宿る。
絶対的正義を持つ神と一体化したとき、人は自己否定という概念から解放される。
この爽快感が気持ちよさの理由。
何が自分をそうさせたのか?
じゃあ、何が自分をそうだせたんだろう?
見下したくなった瞬間、私たちの頭の中にはこんな考えが浮かんだはず。
”あの他者が自分だったとしたら、絶対に責められるよね。”
責めに耐えられるほど強くなさそうな自我を守るために、相手を非常識呼ばわりして自らを安全な場所へ避難。要は防衛本能が働いてる。
でも、その本能必要?
考えてみれば、あくまで他者のことなんだし、目に入れなきゃいい、放っておけばいい。いくらでも分断できる。
他者がどう周りから悪態つかれようが、それは自分と関係ないのだから無視すればいいのに、絡まざるを得ない自分がいる。
自分と他者を見分けられないと、最後には独裁者になる
自分の延長上に他者がいるとき、他者の自由を認めることができない。
他者は目線の外にいる存在でなく、目障りな存在として居続けてしまう。
目障りな存在だから、絡まざるを得ない。
自分と他者を区別できない人は、いつでも自分だったら、に置き換えて考える。
だから自分と相容れない相手は、すべて見下しの対象になる。
そうやってると、すべての人に対して、排他的な見方になってしまう。
最終的には、神のような独裁者としてふるまうことになる。
見下してたつもりが、結局見下されることに
神のような独裁者は、相手を窮屈にする。だから相手は離れていく。
そして裏でこういうのだ。
「あの人、偉そうだよね。人の悪口ばっかり言って、自分はどうなのさ」と。
はい、ブーメランキター!!
自分と違う相手を認めることができないと、こんどは自分が認められなくなる。
完全一致する人はいないのだから、どうやったって最終的に一人ぽっちになる。
捨てたつもりが、捨てられた。ミイラ取りミイラ。気持ちよかったのは最初だけで、最後はただの寂しい人。
だから見下してしまう自分を見つめよう。
他者との区別がつかない自分を見直してみよう。
一人ひとり違う考えを持つという意味では人は孤独であり続けるけど、なにも一人ぽっちで孤立する必要はないんだから。