決めポーズを見せられるのが苦手な理由

オンライン記事を読んでて、2頁目までは文章のみ。いいこと言ってんじゃん!と思っても、次のページを開くと「えっ?なにその気取った感?」みたいな写真が載ってて、ゲンナリすることがある。
内容にかかわらず写真だけで、読み手の気が削がれる。その理由を追ってみる。

写真から何を感じる?

対談中の写真を載せるのは、場の雰囲気を伝えるために有用だと思う。手振り身振りを添えながらインタビュアーに答える取材対象者の写真は、素直に見られる。

ところがそこに対象者に合わせた背景セットとか、対象者の目力満載の気取った顔が入ると、途端に「どや!スゴイやろ」という主張が漏れ出てきて疎ましく感じる。

写真を見てるだけで苦しい

風景的写真と、ドヤ要素の載った写真では、同じ画面構成でも圧迫感が違う。
ただの情報提供なのか、「こう見られたい感」満載の発信情報なのかの違いにより、読み手は主体的な度合いが変わる。
自分のペースで情報を掴めるのか、背中を押されて意図した情報を掴まされるのか。

記事くらい好きに読ませてくれよ~と思っても、発信者の圧を前に跪(ひざまづ)かざるを得ない。

気楽に見られる写真とは

「同じ生き物が映ってる」でも、ペットの写真は見られることを気にしない分、どんなポーズも見てて微笑ましい。同じく風景写真も、「美しく感じろ!」とか「泣け」と強制されない分、さっと見られる。

本来写真は日常の一部を切り取るためにあるのに、誰かの意図を反映した絵を残す機会として利用されたのなら、見た人はコントロールの力が働いていると感じて、嫌になる。

気楽に見られる写真とは、見る人の主体性が担保される写真である。

見せたいなら上手くやれよ!

スパイなんかはこの性質を熟知していて、そう簡単に本丸を見せないように気を使う。
某チューチュー王国でも園内にキャラクターを隠しておいて、入園者が見つける楽しみを作り出してる。
ドラマ「逃げ恥」では主人公が以前着用した制服を使ったさりげない演出で、ネット民を湧かせた。

バーンって宣伝するより、隠した方が印象深い宣伝になる。それは見る側に「気づく、探す」という主体性を持たせているから。
自分で動いたときほど、深く記憶に刻まれる。

見せられてるものは精神のゆがみ

見せられる害ってものもあると思う。記事は読み手のものでもあるのに、書き手の意向だけで圧力満載の絵を見せられるのは、迷惑千万。

どう見られるのかに気を取られて誇大自己の演出を狙う精神のゆがみなど、読者は近づきたくも見たくもないんです。