女性であることを否定してきた高慢さに気づく

私は残念ながら、美人とはほど遠い顔をしています。小さい頃から、「かわいい」とも「きれい」とも言われず、道ばたで気づかれることなく咲いている野花みたいに生きてきました。

年頃になっても、女性らしいファッションには目もくれず、スタイリッシュなユニセックス路線。女性であることを、ことごとく否定してきたと思います。

けれども先日デヴィ婦人の上梓した「選ばれる女におなりなさい」のさわりを紹介したwith onlineの記事を読んで、自分は恋にも女性らしさにも受け身であったと痛感しました。

女性らしさ?そんなもん、無関係だと斬り捨てていたことに反省です。

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女性らしさを否定した原因

中学生のころ、目を引く色の服を着ただけで母から罵倒され、女性らしさを禁じられた身としては、男性の目を引いてはいけない、というのは心に刻まれた約束事でした。きれいな格好をするなどといったことは、禁忌事項だったのです。

顔はしょうがないから、頭で勝て!という教えを守り、男性とは張り合う存在であり、ライバルでした。それゆえ、ひらひらした洋服などというものは、男性に屈する女性のへつらいの象徴くらいに捉えていました。

格好はジーンズにシャツという性別を排したもの。

これはこれでいっか、と思いつつ、いいのだろうか?などと考えていたら、お笑い芸人の北陽の虻川さんも同じように女性らしさを求められることに違和感を感じていると語っていて、もしかしたらこのような悩みを抱える人は少なくないのかもしれないと思いはじめました。

心に抱える問題の正体

幸運なことに、学生時代モテる女性と比較されず、見た目で男性を惹きつけないことにそこまで深く悩んだことはありません。それでも、女性の美しさのピークは20代前半といわれてるのを聞いて、「私の美しさのピークってあったんだっけ?」という忘れ物感はありました。

それが先日、当該記事を読んで、やっともやもやとしていた正体が掴めました。教えを守り、まっとうに生きてきたつもりが、単にサボってきた、主体性を放り投げてきた、問題だらけの人生だったんだと。

私は異性に胸の高鳴りを与えることをサボってきました。出会った男性に、私の見た目で心が満たされた人など、一人もいなかったことでしょう。私自身がみたくもない姿なのに、貧しいその姿で、誰かの心を豊かにすることなどできっこありません。

いくら美しい顔立ちでなくとも、爪、指、肌、髪といったパーツ、言葉遣い、所作といった態度で、ハッっとさせられたはず。

そういう努力をサボってきた。

そして主体性。男性を魅了するために美しくなろうとしませんでした。美しさを武器に場をコントロールすることはいくらでもできたのに。

私を好きなら、そちらからどーぞ、というのは、単なる丸投げです。戦略を立て、思うように事を運ぶ意思を手放してしまっている。

確かに愛されることは幸せです。だからといって、たまたま愛されることに身を委ねるのは不幸せです。くるともないチャンスをただただ待っているのは、己への責任放棄でしかありません。

自分のことは自分で決める。そして同意を取り付けるために、お膳立てをする。これは生きるのに伴う責任です。主体的にやってナンボです。

高慢ちきな生き方の修正

心の豊かさを与えることをサボり、戦略も立てずぼーっと生きていた。まるでお姫様のような高慢さです。

そして高慢さの背景にあるのは、どうせ無理でしょ、という諦めでした。けれども自分という存在もまた他者なのです。なんでもかんでも諦め色に染めていいわけではありません。

与えられた肉体を、機能を、より引き立てるように磨いていく。そういう自身に対する敬いの気持ちが、美しさとなって伝わっていくのです。

内面からにじみ出る美しさは、その人の生き方の表れ。親から教え込まされたとはいえ、私はずいぶんと自分を粗末に扱いすぎました。だからいつもくすんでいて、もしかしたら、雨上がりの泥のついた野花より薄汚れていたかもしれません。

これからは良いところは伸ばし、悪いところはまぁまぁのところに落ち着かせる。そういう人材を活かすといった立場で、私という人間のプロデュースをしていくと、40有余年ひどいことをしてきた自分へ償いができるのかもしれません。