自分が必死で得たものを簡単に手に入れたいと言われたらムカつく。どうすれば?

なんでだか分からないけどムカつくことの一つに

私が必死で頑張って手に入れたものを、相手は「それくらいくれたっていいじゃない!頂戴よ。」といってくる事が挙げられる。
ファーストインプレッションで、”ハッ?何言ってんのアンタ”くらい驚く。

手に入れるには、我慢を重ねたり、努力したり、睡眠時間を削ったり。それなりの犠牲を払ってる。その犠牲を払うことなく、カンタンに手に入れたい、と言われると、”私の犠牲をなめんじゃねーよ”とつい、頭に血が上ってしまうのだ。

だが、残念なことに甘っちょろい人生を思い描く人は一定数いる。そいつらにいちいち腹を立てて、いいんだろうか。
ここはいっちょ大人になって…とかは絶対言わない。けどなんか心が静まる方法を考えてみたい。

こう考えればいいんじゃないか

頭に血が上った瞬間、私を支配しているものは何だろう?

まぎれもなく、”私は頑張ったのに”という思いだ。「私は頑張ったのに、あなたは頑張らないのかよ」という対比が生まれている。
言い換えると、私 VS 相手 という対立構造が出来上がってる。

このとき私の心は酷く荒れ、心拍が上がっている。冷静さを失ってるんだ。そのときの私は確実に、「場」に飲み込まれている。だから、憤ってるようで、意外と足元はおぼつかない。
相手を許せない気持ちもあるけど、自分の努力が安っぽいものにみえて、自信を失っている。

だが、考えてみると私が手に入れたモノは、相手が手に入れたからといって色あせるものだろうか。相手が手に入れるよりずっと前に私はそれに価値を見いだし、投資をした。投資が功を奏し、今自分はそのモノを手にした暮らしをしている。
十分ではないか。

相手と比べるから苦しい。私が持ってるモノに目を移せば、アレ?思ったほど心拍上がらないよね?

自分を自分に引き寄せる

ー自分がどうありたいのかー
その主体性を奪われるとき、人は言葉に振り回される。周りによって今手の中にあるものの価値が決まると、思い込む。では、本当に価値は決まるのか?

価値を決めるのは、やはり自分自身じゃなかろうか。

自分を見失うから、相手の言葉に振り回される。こういうときは、自分の意思でそれを手に入れようとし、実際に手に入れたんだ、と考えを切り替える。そうすると、意識から相手は消え去り、穏やかな心を取り戻せる。

自分がどれだけ自分の考えの上に立っているかを意識すると、驚くほど立っていない時間が多いことに気づく。
私たちは、私たちでありながらも、社会の中にいる私たちである時間が長いのだ。だからこそ、だれかのひと言に心揺さぶられる。

いい方に揺さぶられるならともかく置かれている環境によっては、心身に影響のある方へ揺さぶられることもある。そんなときこそ、自分を自分に引き寄せる。
概念として理解が難しいかもしれないけど、これはとっても大切なこと。