同じ話を繰り返す人に中で起きてること

あなたは同じ自慢話をして、「くどい!」と言われていないだろうか?
反対に同じ自慢話を聞かされて、「耳にタコだよ~」と参っていないだろうか?

人はなぜ、一度ならず二度までも自慢話を繰り返すのか。

そこには繰り返さざるを得ない原動力がある。それを知れば、自慢話と上手く付き合えるかもしれない。

思いを受け止めてもらえぬ現状

天にも登る思いをしたとき、心が嬉しさでいっぱいになる。
だから誰かに言いたい、誰かと分かち合いたい。

身近な人を捕まえて、嬉しかった事柄を話す。

ところが相手の反応は悪い。ふーん、と受け流されたり、良かったね、とあしらわれたり。途端にあなたは拍子抜け。えっ? 私の感情、捨てられた? と。
想像の中では一緒に手を取り合って喜ぶはずだった。「本当に良かったよ」と喜びを分かち合うはずだった。なのに何このトーン。なんだかとっても消化不良。感情が行き場を失ってる。

人は感情を誰にも受け止めてもらえない時、気持ちが滞留する。

相手との完全一致を目指す執着心

繰り返す人は滞留した気持ちを取り払うために「他人に聞いてもらって、共感してもらうことが不可欠」と信じている。だからAさんがだめでもBさん。今日がダメでも仕切り直して明日。条件を変えてなんどでもトライする。

そして、執拗なまでに同じテンションでいることを求める。まるでアメーバが同化するかのように完全一致を目指している。
「なぜ一致を目指すのか、なんの為に目指すのか」そんなことはかすりもせず、一致こそが至福の時と信じて疑わない。

そんな思い込みが執着としての「繰り返し」を生む。

受け止められることに幸せを賭ける

それもきっと自分を受け止めてくれる人がいる、とガチンコで信じているので、いつまでも執着から離れられない。
それは ”きっとどこかに私の王子様がいるわ~” と理想を追い求めるシンデレラ症候群の人と同じ。

受けとめられない現実を突きつけられるほどに、理想への没入感が増していく。
そして終いには、受け止められなければ幸せになれないとさえ思い込む。「受け止められること」に幸せの全てを賭けてしまっているのだ。

偉い人は自慢話をしないし、繰り返さない

ではどうやって執着を手放すのか?
それは偉い人の生き方にヒントがある。

偉い人は自慢話をしない。武勇伝も語らない。

それは自分で自分の心を受け止めているから。
他人に感情を受け止めってもらいたいなんてセコい考えは持っていない。感情を手中に収め、喜びも悲しみも全て自分で受け止める。いくら苦しくても、我は他者は同化できない孤独な存在だと分別を持っている。

そして偉い人が偉い人でいられる所以は、単に孤独を覚悟しているだけでなく、過去に胡座をかくことなく未来へ時間を投資し続けているからだ。過去は所詮過去、同じ事は起こらない。そういう割り切りの良さが自慢と無縁の生活へとつながるのだろう。

まとめ

話を繰り返す人は、他人に感情を委ね、他人と自分の完全一致を目指し、それを幸せの条件としている。
だが、それは所詮シンデレラ物語で、現実解ではない。

話を何十回、何百回繰り返そうとも、心が晴れやかになる日など来はしない。
ならば自慢を振り返る分、次のことを考えたほうが建設的だ。

自慢話はあくまで「自分の中でほくそ笑む密やかなお楽しみ」くらいに留めておくのがミステリアスな自分を作るにはいいんじゃないかと、個人的には思うのです。