しゃべりまくる人の心に潜むものの正体

人に会えばしゃべりたい、人の話を聞けば自分も話したい。そうやって自然としゃべり役になってしまってることはないだろうか。

聞き役になるつもりが、いつの間にか話し役。どうやっても聞き役になりきれない、そんな人の心理に迫ってみたい。

抑えようのない衝動

自分のことで恐縮だが、ある話題になると ”これ、以前体験したことに似てる。私のことも話さなくっちゃ” という気持ちが押し寄せる。抑えようとするが、一度生まれた衝動は消しきれない。そして気づくとベラベラしゃべっている。

そして興に乗った私は、以後もしゃべり続け、相手の言葉に被せまくる。さぞ周りに不愉快な思いをさせたであろう。
…分かっている。よーく分かっている。私が間違えているって。しかしながら、衝動に打ち勝つ術を持たない。ゆえに何度も同じ失敗をする。

こんなことは自分だけなのか?と思っていたある日、衝動に負けているのは、私だけではないことに気づいた。

一定数、衝動に負けてる人がいるらしい。

なぜ衝動は起きるのか

衝動に負けてる人たちの話を聞いていると、会話にある目的があることに気がついた。

相手に ”私はどうなのか”を理解させたい

ー私がどんな体験を積み、私がどういう知識を持っているのか、分かって欲しいーという思いから、私という人物の解説を織り込む。するとしゃべり手の中では、自分は相手に理解されたことになり、その後の展開も、自分が理解されたこと前提に進むと思い込む。
それにより主人公級に理解された気分を味わえる。

この気分にたどりつくために、衝動がわき起こる。
つまり衝動には、「自分が主人公になる」という明確な目的が存在する。

しゃべるから主人公になれるのか?

衝動があるからこそ、話題の中心になれ、注目を浴びられる。そうなれば、自信もつくし、なにより自分への肯定感が増す。そういうルーチンは気持ちがいい。だから衝動が抑えられず、相手を遮ってでも話をしようとする。
理屈としてはこうだ。

だが自分語りをする人は、主人公に思えるか?と言えば、はなはだ疑わしい。突然話を奪われた相手は憮然とするだろうし、話を聞いていた周りも”えっ?なんで今、あんたの話するの?” と眉をひそめるだろう。自分だけが話題の中心になったつもりで、周りはそうとは思ってはいない。なのにそれに気づかずあらん限りを尽くして自分を説明しようとする様は実にシュールである。

当然ながら、みんなさぁ~っと引いていく。だから、しゃべりの人ほど人付き合いは下手。

辞められない止まらない衝動

それでも、態度を改められないのは、衝動が抑えられないから、というより、衝動を生んでしまう背景に問題がある。

元々おしゃべりな人は、私を分かってくれる誰かを求める気持ちが強い。その気持ちが、「絶対に受け入れてくれる人がいる」という思い込みを作る。未だ見ぬその御人を求めて、会う人会う人にアタックする。だがそんな人は現れない。

当たり前だ。この世に私を受け止め、理解してくれる人など一人も居ないのだから。

黙っている人の心にあるもの

反対に黙っている人は、いい意味で人に絶望している。この世で一人として自分を受け止め、理解してくれる人などいない、と諦めている。この感覚を持てると、他者の話に無理に割って入ることもなく、静かな気持ちのまま話に耳を傾けられる。そして相手の言い分を十分に理解する。

返す意見も当然的を射たものとなり、たったひと言で周囲のハートを掴むことも珍しくない。結果としておしゃべりな人より存在が光ることになる。

しゃべりまくる人の心に潜むものとは?

このように、言葉数が多い・少ないは存在感とはなんの関わりもない。ところがそれを分かってないと、より多くをしゃべり、より多く引かれて、さらに多くしゃべるという悪循環をたどる。
たまに年配の人が取りつく島なくしゃべり倒しているが、それだけの年数、悪循環に身を置いた結果なのだろう。ここまでいくと、受け止められたい欲に飲み込まれているようで怖い。

そもそも私を受け止め・理解してくれるを求めるのは、蜃気楼を掴むようなもの。どんなに望んだって、満足の境地にはたどりつけない。
しゃべりまくる人の心には、夢物語を追いかけたいという期待が潜んでいる。と同時に、足元を見て絶望する覚悟が欠けている。

要するに現実を見ていない。