やっぱり不倫はダサいよね

あなたは不倫否定派、それとも擁護派?

私は否定派だ。理由はなんといっても「ダサい」から。
不倫をモテる称号と勘違いして自慢する輩もいるけれど、そいつは肝心なことに気づいていない。

「この年で恋に落ちた自分を誇らしく思う。きっとこれこそがホンモノの愛だ」って。はぁ?
単に、一度下した「この人を愛する」という決定を覆してるだけですよ。要するに自分の決定に責任を持てない、無責任ヤロウ。

「いや、たまたま出会う順番が悪かったんだ。不倫相手と先に出会っていたら、僕たちはこんな形ではなかった」⇒そうか?
確かに今手元にあるカードが生涯通じてベストな組み合わせ、という保証はない。ところ変わればなんちゃら、だ。
でも、それなら仕切り直せば良い。地位も、家族も、住むところも全部捨てて、一からやり直してみる。これなら不倫にはならない。

不倫がなぜ、「倫ならず」と言われるか。それは今持っているものは手放さずに、「新しく何かを手に入れたい」と思うから。
人間は手に出来るものの数が決まっている。その数以上に欲しがるから「倫=守るべきみち」から外れてますよ、って言われる。
やはり欲はかいてはいけない。

男女の違いにみる欲

その欲には、男女に違いはあるんだろうか?

実はある。

男性は、新しいオモチャが欲しくて、女性はお姫様扱いされるシチュエーションが欲しい。それは小さいころから変わらない。

男の子は興味のあるオモチャを示されると、すぐに夢中になる。ときにそのオモチャの対象はセクシーな女性になり、知的な女性になる。女性とのめくるめく世界の中で心行くまで遊べると気持ちが満たされる。だから男性は女性にいつまでも新鮮さを求める。
女の子はお姫様扱いをされると、胸がキュンキュンする。王子様フェイスの男性が自分だけを特別扱いしてくれるとき、幸せでいっぱいになる。だから女性は記念日を大切にする。
そして男女とも、暮らしの中で欲が満たされる機会が失われると、叶えてくれそうな人へふらふら吸い寄せられていく。

そうやって気の向くまま好きな対象にひょいひょい向かっていく大の大人。これは自分に素直だから?
子どもなら未成熟だから、好きなものがコロコロと変わってもかわいいね、で済まされる。でも大人はそうはいかない。
大人は「自分で決める」権限を持っている代わりに、決定したことに最後まで責任を取らなくてはいけない。その責任をとらずに美味しいところ取りをする、のは、ただのご都合主義。

不倫がダサい理由

格好いい生き方は、一本筋が通っている。下した決断は、柔軟に対応こそすれ、覆したりはしない。それは過去の自分に対する強い信頼だ。真剣に悩み、考え抜いた結論だからこそ、自らが一番の賛同者となって支持し続ける。
一方で、たいして悩みもせず流されて決めてた人は、都合次第で筋を何本もに枝分かれさせる。どの幹も細く、人間としての芯がない。

だから不倫はダサい。生き方としてダサい。
いやいや、これこそが真実の恋だ、というかもしれないけれど、恋なんて恋と愛の決定的違い、分かる?で書いたように、ただの恋は「受け身」ですから。偶然に身を任せてるだけです。自分じゃなにもやってない。

世間は今「不倫はしょうがない」という風潮と「不倫を許さない」という風潮に分かれている。そして、不倫をサレた時のことを想像して、許せないという立場から後者を支持しているように思う。
だが、それは本質的問いではない。むしろ不倫という生き方が筋として通っているかどうかの方が大切ではないだろうか。

たとえ世間が「不倫くらいいいじゃない」という風に色づいても、己の生き方として潔いのか、と問うたとき、ご都合主義で決定を覆す情けなさが自らの前に立ちはだかるならば、それは世間がなんと言おうとも「ダサい」のである。