「大切な友」とかいう場合はだいたいヤバい

長くつきあいのある人、自分を子供の時からしってる人のことを「大切な友」と表現することは、特別ひっかかることのように思えません。

けれども使いようによってはこの「大切な友」の意味が全然違ってくるんです。言葉はかならずしも字面どおりではない。

怖いですね~。

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「嫌」を隠すための手段

学生時代から付き合いのある友人と会食するとき、いつも「いい人いないんだよね~。婚活全然うまくいかなくって」という話が堂々巡りする。はっきりいって耳たこだ。言うことになんの変化もない。

けれどもそれ以外気になることないし、なんといっても「大切な友」だから、付き合いを止めるって選択肢はないんだよね~。

こんな話、耳にしたことないでしょうか。

ボヤいてる本人は、本気で友を心配しており、なんとかしてあげたいと思っている。なんとも心優しい友達だこと。

って思っているとしたら、あなた、見えてなさ過ぎです。

この方は、婚活話を聞かされるのが嫌で嫌でたまらんのです。本当は、「聞き飽きてるから、二度としないでちょーだい」と正面切っていいたい。けどぐっとこらえて、全然関係のないあなたに漏らすことで、なんとかバランスを取ってる。

「嫌」の転嫁ですね。

でもなにも転嫁せんでもいいですよね。直接相手に言えばいい。ところが自分は嫌われたくない、反感を買いたくないから、言えない。

っていい人ぶりじゃん。
「嫌」だからって関係ない人に感情ぶつけて、私はいい人ぶりっこを装うために「大切な友」面。それも、そう言っとけば、「そんなに嫌なら斬れよ」というアドバイスも回避できますしね。

これってまさに一石二鳥?
なかなかしたたかな戦略です。

自己心酔の手段

卒業するとき文集に「いつまでも大切な友」だからねって書いてるのみたことありませんか?あの「大切な友」もそうとうアヤシイ。

書いてる本人たちは、本気でそう思っているんでしょう。でも裏では、「私にはこんなに思える友達いるんだよ」とか、「めっちゃ深い絆で結ばれてるから」といったアピールも少なからず存在する。ようは、自己心酔です。

でも学生時代、わかり合えてる思っていた人ほど、社会に出て環境の差が大きくなると、「私のこと、昔みたいに分かってくれない!」と相手にを不満を抱きます。

そりゃそうです。学生時代はある意味金太郎飴的一律な生活でしたもん。相手のこと分からなくても、自分と同じだから、想像する必要なんてなかったんです。でも環境が違えば、想像しないと相手の心中は分からない。

本当の意味でわかり合ってる実力が露呈するのは、環境がバラバラになった社会人以降です。

自己心酔のあまり、時期尚早に「大切な友」とか使っちゃいましたね。

なぜ「大切な友」がマズいか

大切に思える相手を持つことは、尊いことだと思います。

ですが、その相手が大切な友であるかどうかは、別。「大切な友」になるかどうかはあくまで結果であって、これをしたから大切な友、というわけではないのです。我々が大切な友に出会えるためには、ただ目の前にいる相手を思い、幸せを願うことしかできません。

それをだんだん積み重ねていったとき、気づけば大切な友だったという状況になる。だから、「大切な友」という言葉自身、そうそう表立って出ることなどありません。

もしそれが出るのであれば、言葉の意味以上に、牽制的だったり、保守的だったり、名誉だったりといった目的が存在します。

ようは魂胆まみれで薄汚い。
だからこそ、「大切な友」とかいってる場合、たいていヤバい事情が絡んでます。はっきりいって、全然大切なんかじゃありません。

「大切な友」のいるポーズを決めたいだけなんですよ。