自分の中の「世話好きオバサン的性格」と向き合う

結婚してから、独身者の恋人探しのお手伝いに何回か手を出そうとしたことがある。

中には喜んでくれる人もいるので、いいことだと信じて疑わなかったが、ここへきて自分の中のいやらしさがぐんぐん目立ってきた。

私は世話好きオバサンとして、一体なにを目論んでいたのだろう。案外、自分でも分かっていないものだ。

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自分の中の思い上がり

結婚したから、といってすべての人が幸せなわけじゃない。しかし若造だった私は、女性はみんな結婚を望んでいるなどと勘違いして、ならば妙齢の男性を紹介すれば喜ばれるのではないか、とう目算で、あの人とあの人の組み合わせどうかな~と妄想していた。

振り返ってみると、そのときの自分はずいぶんとふんぞり返っていたのではないかと思う。なにせ私は既婚者だ。妻という確たる地位を手に入れて、セーフティーゾーンでなんでもござれ精神の下、結婚の願いの叶わぬ可哀想な民をなんとかするのが、我が使命くらいに思っていた。

しかし同時にそれは、独身者に対して優位に立ちたい、支配下に治めたいという、強い独占欲であったと思う。いってみれば人生の目的を失った者の最後の砦である下々への哀れみを上手い具合に具現化する方法が、世話好きオバサンになることだったのだ。

誰にも身分を保障してもらえないから、世話好きオバサンと化して下々から感謝されるようにもっていって、身分を回復するというゲスなやり方って…我ながら、実に腹黒い。

それだけではなく、要らぬアドバイスなんかして、本当にお節介だ。本来であれば、具体的にどう手を貸して欲しいか言われるまで、黙って控えていればいい。それを「理想高すぎ」「不倫は未来がないよ」とかエラソーに言っちゃって、マジで出るに出まくった釘みたいに邪魔。

このね「自分がー」ってのが、押し込めても押し込めても出てこようとする辺り、ちょっと常軌を逸してるんじゃないかって思うんです。何かに取り憑かれてねっか?私。

弱小すぎる自分

今となっては、穴に入りたい。こんな偉そうな自分の実情は、「妻にはなったものの、私って何さ?何者なのさ?」。要は、自分で自分がよく分かっていない。

今までなら、学生です、会社員です、といったインデックスを付けていられたのが、ある日突然無職です、になる恐ろしさ。社会になにかを還元するわけでもなく、ただ息をするだけの人生がこの先何十年って続くことが、恐ろしくて片目でさえ開けていられない。

でもこれって、「何者かでなくてはクズ」という価値感に縛られてるからだよね。「私は私でいーじゃん!」という絶対的な信頼が自分にあれば、済む話だよね。

ということは、「世話焼きオバサン」になってしまった原因は、自分への信頼のなさにあるってこと。私が私でいい、と思えれば、ヘンにしゃしゃり出ることも、哀れんだりすることもない。だって、所詮自分以外のことだもの。

他者という存在は、関係ないとバッサリ斬り捨てるものではなく、自分とは切り離して注意深く観察し場合によって近づいたり離れたりするもの。距離の調整は、素直に相手を見ることができてこそ。過去の私のように、自分の身分の保障のために使ってやろうみたいな色眼鏡をかけてるうちは、所詮無理。

それに気づかずにいたアホンダラの私は、せっせとお世話にいそしんでた。

誰かの助けになるには自立がいる

その時はきっと、人助けするまで成熟できていなかったのだ。

世間には、職業として男女を引きあわすお仕事を立派にやってる人たちがいる。その人たちは、労働対価としての金銭を受け取る以外の、私が狙っていたような地位の保障など、求めてはいない。

ようは自立している。

本当に人を世話するならば、坊さん出言うところの解脱、自己の超越、そういう「欲」を廃し、我を消滅させる崇高な精神がいる。すくなからず、透明人間になることができなければ、純粋なお世話などできない。

やっとそれに手を掛けられるようになった今思うことは、自分をどれだけ自由にスプリットできるかが一番で、たくさんの人格を操り、多数の視点を有し、必要なら無機物にさえなれる、そういう超人的思考を育て上げることがいる。

自分を消す術を手に入れるまでは、自分を抑え戒めるべきだったと、今は深く反省してます。ごめんなさい。