「友だちできたの?」と新学期に聞かれるの、嫌じゃなかった?

4月は新学期。新しい学校に通い始めたり、クラス替えがあったりで、身近なメンバーが変わります。そんなとき、家に帰ってまず訊かれるのが、「新しいクラスはどう?友だちできた?」でした。

この瞬間、胸にどよーんとしたものが押し寄せたのは、私だけでしょうか。けして友だち作りが上手かったとは言えない私。けれどもそんな特性を見ようともせず、とにもかくにも友だちがいないとダメよ、といく価値感の押しつけが苦しかったです。でも悲しませたくないから、慌てて「うん、良い感じだよ。出席番号前後の子と話できた」などと取り繕っていました。

そして今になって思うのです。こんなにまでして自分を偽らなければならなかったのか。友だちのできない私が悪者なのかと。

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質問はコンプレックスを写す鏡

母親というのは、娘を分身のように見ます。だから娘に友だちができない、は、自分に友だちができないと捉えてしまう。そこで「学校」という目に見えない場所で、自分が仲間はずれにされてないかを見るために、分身である娘に「ちゃんと仲間に入れてもらってるよね?」と確認するのです。

確認して、「OK!」であれば、ほっと胸をなで下ろし、「NO!」であれば、尻を叩いて友だちを作らせる。どうも母親の中に、「一人で自由を満喫する」という選択肢はなさそうです。

けれども群れを嫌い、自由を好む子もいます。みんながみんな、仲良くお友達♥でいたいわけではない。なのに、四の五の言わずに友だち作れ!とせかすのはなぜでしょう?

それは、母親自身が過去に友だちができなかったという悩みを抱えていたからです。

友だちになりたくても、声を掛けてもらえない。自分からいく勇気もない。友だちの輪に入れたとしても、本当に友だちと思われてるか疑問なポジション。そんな友だちコンプレックスを抱いているからこそ、過去のニガイ思いを、もう二度したくない。その思いの強さが、「友だちできたの?」という強迫観念となって表れているのです。

「友だちできた?」は精神的脅迫

しかし、あくまでその思いの主は母親です。本人の感情は、本人が請け負う以外ありません。そのことを子供が分かっていれば、「別に気にすることないよ。お母さんは子供のころ、新学期友だちすぐできた?」と返すことができます。

ところが、なぜ「友だちできた?」と訊かれてるのかを分かっていない子供は、答えなくてはという意識に囚われ、心の中をのぞき見される気味悪さを感じながらも、「う…うん、できたよ」と答えるのです。

これは精神的脅迫以外の何物でもない。

家庭の中で起こるなにげない潰しは、親のコンプレックスにより引き起こされるのです。そう思うと、生活のここかしこに、親のコンプレックスの裏返しが存在します。

恋を存分に味わうことができなかった母親だと、「○○君ってだれ?仲良いの?」と聞いてくるだろうし、成績がいまいちだった母親だと、「テストどうだった?出来は?」と聞いてくる。

話してくれるまで待てばいいのに、根掘り葉掘り聞きたい、いや聞かないと落ち着かない、という思いが先行して、無理矢理引き出してしまう。これは子供を信じることのできない、心のゆとりのなさゆえです。

「いや、そんなこと言ったら子供のこと、なにも分からないじゃん!」と思うかも知れませんが、信頼されていれば、子供の方からいろいろと話してくれます。そうされない時点で、見直すところがあるのではないでしょうか。

これから取り組むべきこと

親を信じられないと、子供の心の中に「安全基地」と呼ばれる場所が作られません。ここに帰ってくればほっと一息着ける場所がない、というのは、ひどく不安なものです。

そして本来であれば、それが家庭であるところを、家庭こそが精神的脅迫の場と化すとき、子供は心の行き場を失います。その絶望感が、子供から「生きたい」という意欲を奪っていきます。

幼いときの覇気のない毎日は、家庭が「安全基地」として機能していないことにありました。そして親のコンプレックスの裏返しによってそれらは引き起こされていたのです。けして友だちができない私や、異性と話した私、成績の悪い私にあったわけではありません。

今もし、自分を出来ない奴だ、とか好かれない奴だ、と自虐的に思っているなら、それは出身家庭が作った虚像です。けれども、それに縛られている限り、社会に出ても続く「友だちできた?」と同じ質の、「お宅の旦那さんの年収いくら?」「どこの学校を出られたの?」といった問いに立ち向かえる自分を創れません。

ここはひとつ「これは相手のコンプレックスの問題」と割り切れる自分になるための方法を考えてみてはいかがでしょうか。