親ほど子供の気持ちを分かって「いない」存在はない

自分の事を本気で心配してくれるのは、親だけだ。
親ほど自分を理解してくれてる存在はない。

そう思ってはいないだろうか?

だからこそ、親に従い、親を大切にする。

だが、敢えて異を唱えたい。

親ほど子供の気持ちを踏みにじり、無碍にする存在はいないのだと。

家庭におけるヘンなところ

独立し、親元から離れ、たまに連絡すると、まっさきにこのような言葉をかけらる。
「ごはん食べてるの?」
「会社(学校)で、上手くやってる?」

聞き慣れたおなじみの言葉だ。けれども、子供が「ご飯食べてるの?と心配されたがってるのか?」「会社の人と上手くやってるとアピールしたがっているのか?」というとはなはだ疑問である。

むしろ「あんまりちゃんと食べてないから、突っこまれたくない」「会社での人付き合いを把握されたくなんかない」と思うのではないだろうか。

何歳になっても、親の管理すべき存在としての子供でありなさい。子供なんだから、情報はつまびらかにしなさい。というのは、なんと個人の尊重を踏みにじる行為なのだろう。

本当に子供のことを思い、子供の気持ちを尊重するならば、「それは訊かれて嬉しい質問か?」と問いただすはずである。少なくとも、他人はそのようなことを訊かない。それは、興味が無いからというのもあるだろうが、そんなことを聞くのは踏み込みすぎだという【常識】が働くからである。

何人(なんぴと)たりとも、尊厳を踏みにじられることがあってはならない的なことが日本国憲法に記されていたように思うが、こと家庭においては、そんなのどうでもいいことらしい。ってか?

真実はどこにあるのか

いくら親の腹から生まれたといっても、それぞれは別の生き物である。しかしながら「親と子とは別の生き物」という境界をはっきりしないと、親が気になったから訊いてみた、知りたいから知らせろ、と親を中心としたカーストが作り上げられていく。

親が存命なかぎり、子の精神的な自立は妨げられ、またあらたまって「うちの親、オカシイんじゃね?」と疑問を抱く機会も与えられず、帰省する度、居心地の悪さを感じるなんて、なんと不条理なことか。

そんでもって、親の存在こそが子の成長を阻害し、親の言葉こそが子の心を潰しているのに、「親は大切にするもんだ」という儒教的精神にのっとり、親に刃向かうことをハナからありえないこと、とする風潮がズーンの目の前に立ちはだかる。

だれも味方してくれぬ息苦しさといったら、ない。

ただ昨今、親について見直す機会は出てきており、特に母親と娘の関係については、心にため込んだ有象無象を深刻さを交えず表出するマンガなども散見される。是非、この風潮を進めていただき、たとえ親子であっても、他者であるという当たり前の事実を皆が共有する時代を待ち望むばかりである。

親だから子供の気持ちを分かってるのではない、身近にいる親こそが、子供の気持ちを一番分かっていないのである。

傷ついている自分を親不孝者と責めることなく、嫌だと思うその気持ちに真(まこと)を見いだそう。

信じるものは、あなたの心の中にある。